現在の旧中野刑務所正門(旧豊多摩監獄表門、通称 平和の門)の煉瓦造の建物には、優美な半円形アーチ窓がある。この窓が戦後の増設であること、すなわち、GHQによる接収後に米陸軍刑務所(U.S. Eighth Army Stockade)として使用されていた時期(1946年3月-1956年9月)の増設であることを、古写真と図面に基づき論証する。2021/11/13記
半円形アーチ窓についての従来の説
現在まで残っている半円形アーチ窓
本稿で増設時期を論じるのは、2021年に撮影した次の2枚の写真に写っている半円形アーチ窓である。
この半円形アーチ窓と同じものが、次の資料(1960年)の写真に鉄柵・鉄門とともに写っている。
創建時には半円形アーチ窓は無かった
豊多摩監獄(中野刑務所)の創建時の資料(1915年)によると、当時、半円形アーチ窓は無かった。正門の建物の側面は窓が無い壁であり、鉄柵・鉄門もなく、監獄の外周を囲む高い煉瓦塀が、正門の建物の壁の中央付近(後述の「痕跡(中央)」)に直に接続していた。
この写真は南向き(刑務所の中から外へ向かう向き)に撮影したもので、その説明文(下)によると、正門の建物の、のちに半円形アーチ窓が作られる東側の部屋(白い扉が写っている部分)は消防用具置き場であった。側面に窓を開ける必要は全く無かった。
表門内扉左側ハ消防具置塲右側ハ人民控所及職員弁當置塲ニ充ツ表門ノ右ニ在ル建物ハ人民便所トス
従来の説 ー 接収時代より前に窓が無かったとは言い切れない
旧中野刑務所正門学術調査報告書は、4-5, 4-6で、正門の建物の東隣に鉄門(通用門)が作られた時期について、戦後、中野刑務所がGHQに接収されていた頃としている。すると、半円形アーチ窓(守衛室の受付窓)も、その位置、用途からして鉄柵・鉄門と同時に作られたものと考えられ、それゆえ、同報告書の 4-9 では「接収時代に写る円形の庇」としている。
つまり、この半円形アーチ窓の写った写真として、GHQ接収時代(1946年3月-1956年9月)以降に撮影のものしか現存しないことから、接収時代より前に窓があったか無かったかは断言できない、というのが従来の説である。
正門の壁面に残る3つの痕跡
上の2021年撮影の写真をよく見ると、正門の煉瓦には、かつて塀が正門に接続していた痕跡が南、中央、北の3カ所にある。
痕跡(中央)は、上述したように、資料(1915年)に写る創建時の煉瓦塀の痕跡である。
以下では、これら3カ所の痕跡がどの時代の塀によって付けられたものなのかを考えていくことで、半円形アーチ窓が増設された時期を決定する。
鉄柵・鉄門はGHQ接収時代より前からあった
1923年の関東大震災は豊多摩刑務所(前年に豊多摩監獄から名称変更)に、外周の煉瓦塀が倒壊する等といった甚大な被害を与えた。震災復旧のため新築・改築工事が行われ、その落成式(1931年6月6-8日)の資料が残っている。それらの資料においては、鉄柵・鉄門はあったりなかったりする。
鉄柵・鉄門は無い。震災後に作られたコンクリートの高い塀が正門の建物側面の南端付近で接続している(痕跡(南))。半円形アーチ窓は無い
鉄門が、正門の建物側面の北端付近で接続する塀の一部として記されている(痕跡(北))。半円形アーチ窓は記されていない
次の写真(上ページ)は、上と同じく、震災復旧工事の落成式の写真である。刑務作業品の陳列場に向かう近郷住民が鉄門に押し寄せている。
刑務協會『刑政』刑務協會, 44巻7号, 1931年7月, 巻頭図版4頁目より
矯正図書館デジタルコレクション所収
S6.6.7の豐多摩刑務所(震災復旧)落成式は「初夏の快晴に附近町民近鄕より來衆する者無慮二萬餘人にして、内入場を許したる者八千九百九十三名(同伴入場者を加算せば一萬人を超過す)にして雜踏を極むる盛況」です。先日の正門見学会の人数2800はこの記録に遠く及ばずでした。 https://t.co/CIYkjfrqLd pic.twitter.com/To0zZAdSqI
— くろねこ (@orangkucing) November 10, 2021
この『刑政』 1931年7月号巻頭図版と、上掲の日本政府「写真公報(1960年3月15日号)」を、写ったものの大きさが同じくらいになるように再掲する(赤と緑は加筆)。
1931年の鉄柵・鉄門は「1 配置圖」の図面が示すとおりの位置、すなわち、痕跡(北)の位置である。なぜなら、写真右の鉄柵が「1 配置圖」と同じく、コンクリート塀の凸角(下図の緑丸)に接続しているからである。
戦災からの再建で鉄柵・鉄門の位置がずれた
すると、1931年には半円形アーチ窓が無かったことになる。なぜなら、鉄柵・鉄門が半円形アーチ窓の中心を通っていないと、守衛室の受付窓の役割を果たせないからである。
したがって、1931年の『刑政』と「写真公報(1960年3月15日号)」に写った鉄柵・鉄門は、位置が異なっており、前者は痕跡(北)の位置、後者は痕跡(中央)の位置に対応すると考えるほかない。実際、この2枚の写真に写った門柱は戦災で損傷した門扉の補強を示唆する部材の有無が異なっているし、もし前者の位置が痕跡(北)に対応しないとすると、痕跡(北)に対応する塀の時代がないという不合理なことにもなるからである。
つまり、戦後、戦災で倒壊した鉄柵・鉄門(痕跡(北)の位置)をGHQが復旧する際に、すこし南にずらした痕跡(中央)の位置に門柱や門扉を補強して再建し、そのさい半円形アーチ窓を増設したのである。
(く)
- 中のタイトルは『新築記念』となっている。 ↩
追記: レファレンス協同データベース登録事例に、豊多摩刑務所正門の脇に鉄柵・鉄門が作られた時期を問うものがあった(下のツイート)。本稿でも用いた『刑政』 1931年7月号巻頭図版を参照した上で、落成式の時点で「鉄柵・鉄門あり」としている。さらに、震災復旧工事中の航空写真(『刑務所総覧』1932)からは「判別できない」ともしており、その写真を矯正図書館で見た本稿筆者も同様に考えたので本稿ではその写真を引用していない。
豊多摩刑務所が昭和6年に新築(改築)されたとき,レンガの正門の脇が壁だったのかフェンスだったのか知りたい。(公益財団法人矯正協会矯正図書館)https://t.co/9M98QAFzUf
— 国立国会図書館レファ協公式 (@crd_tweet) March 15, 2022
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