中野区産業振興センター入口の伐採されたケヤキは誰が植えたのか。堀江家と料亭「ほととぎす」について(2022年4月)

中野駅南口近くの中野区産業振興センター(東京都中野区中野二丁目13−14)入口のケヤキ(推定樹齢98~117年)が2022年3月、倒木防止のためとして伐採された。昔、文壇の人々などが集った料亭「ほととぎす」の門前にあった木である。ケヤキと、この場所のかつての住人と、ほととぎすと産業振興センターについて調べたことを書く。敬称略。2022/4/7記
(4/12追記)土地登記簿によって土地の数奇な紆余曲折と、元名主の堀江家がケヤキを植えた可能性が高いことがわかったので、関係箇所を加筆、手直しした。

伐採されたケヤキの状況

2022/3/21最後の姿

中野区産業振興センター入口のケヤキと伐採のお知らせ。2022/3/21撮影

3/22-23伐採

伐採された中野区産業振興センター入口のケヤキ切株。木の内部は空洞になっていた。2022/3/23撮影

樹木診断報告書

2022/2/2、中野区はホームページで伐採を予告した。

伐採予告に樹木診断報告書が添付されていた。樹木診断報告書のインターネットアーカイブ

(樹木診断報告書より)

報告書によるとケヤキは樹高15メートル、周囲4.62メートルだった。報告書からは、過去の大枝欠損の処理など手入れの不手際が木の腐食を進行させたことがうかがえる。「腐朽がかなり進んでいるため伐採を検討。伐採が難しいようであれば樹型は整わないが風圧軽減のため樹高を2/3程度に下げ南側の枝を強く剪定する」ことが勧められた。

樹木診断報告書には区内造園業者の創研ガーデンの名が付されているが、区民が関係団体に問い合わせたところ、診断を行った2人は確かに認定樹木医であることが確認された。

ケヤキは推定樹齢98-117年

樹木診断報告書にケヤキの樹齢は記されていない。木が空洞化して年輪の全部は数えられないが、残った部分から年輪の平均間隔0.75cm/年、切株の直径147~175cm(木質部)と測定できるので、樹齢は98~117年ということになる。

切株の24.7cm中に33年を数える。2022/4/6(く)撮影・計測

料亭ほととぎすについてレファレンスサービスで調査

中野区立図書館レファレンスサービス

中野区産業振興センターの場所は、以前は料亭「黄檗普茶料理ほととぎす」だった。Google Books で検索すると、文壇の人々がよく利用していたことがわかる。ちなみに普茶料理というのは中国風の精進料理らしい。

料亭ほととぎす時代のケヤキを写した写真はあるのだろうか? ほととぎすはいつからいつまであったのか? 中野区立図書館レファレンスサービスで調べてもらった。ありがとうございました。

レファレンス‐サービス
〘名〙 (英reference service) 図書館が行なう利用者サービスの一つで、必要とする文献や参考図書についての問い合わせに応じたり、検索に協力したりするもの。
小学館 精選版 日本国語大辞典

中野区立図書館のウェブサイトから2022/3/24に行った照会内容は次の通り。

1 中野区産業振興センターの場所にあった料亭「普茶料理ホトトギス」の外観の写真が見たい。できれば最近伐採された産業振興センター入口のケヤキが写っている写真。
2 ホトトギスがいつごろからその場所にあって、いつ閉店したか知りたい

3/30にメールで回答があり、5件の資料が示された。いずれも中野区立中央図書館の地域資料(うち1件はウェブでも公開)だ。以下、順番に記していく。

料亭ほととぎす時代のケヤキの写真

【資料1】『中野区文化の栞 区政施行廿五周年記念』中野区民新聞社/編,1957年(D82/A/57)
p.161 入口の写真のほかに、庭園や茶室の写真も載っています。
【資料2】『古木鐵太郎の文学游歩』中野区立中央図書館/編,2015年(Q90/A)
WEB版 https://library.city.tokyo-nakano.lg.jp/lib/files/yukari11.pdf
p.7 中野区広報室(現・広聴・広報課)提供の、ほととぎすの庭園の写真を掲載しています。
(中野区立図書館レファレンス回答より)

(『中野区文化の栞 区政施行廿五周年記念』より)

右側の写真を見ると、ほととぎすの門の右側にケヤキと思われる木が写っている。いつ撮影された写真か書いてないが、この資料が刊行された1957(昭和32)年より前なのは間違いない。また店名はGoogle Books で見ると文壇の人々の各記事にカタカナで書かれたりひらがなで書かれたり漢字で書かれたりしているが、写真の看板にはひらがなで「ほとゝきす」とある。この記事はひらがなで「ほととぎす」と表記した。

【資料3】『ももぞの地域ニュース 昭和53年~平成3年』中野区桃園地域センター,(B83/A)第108号(平成元年10月5日)「ももぞののまちかど⑲ 中野二丁目付近その1 ―勤労福祉会館 婦人会館あたり―」
ほととぎすの入口の写真と、勤労福祉会館・婦人会館(現・産業振興センター)の入口の写真が並んで掲載されている下に「時の流れを見守る北西端の大ケヤキ」の記述があります。こちらのほととぎすの写真は、【資料1】にも同じ写真が載っています。
(中野区立図書館レファレンス回答より)

(1989/10/5付『ももぞの地域ニュース』より)

1989/10/5付『ももぞの地域ニュース』は、写真にあるほととぎすの門の右側の木を、産業振興センター(当時は勤労福祉会館・婦人会館)入口のケヤキと同定している。

料亭ほととぎす営業期間は約20年

【資料1】に「創業昭和26年」の記載があります。
【資料3】では「昭和46年に売却された」となっておりますが、翌年発行の以下の【資料4】では存在していることになっています。【資料5】ではなくなっています。
【資料4】『全航空住宅地図帳 昭和48年度版 中野区版』公共施設地図航空/編,渋谷逸男/出版,1972年9月1日発行(M8/A/73)
【資料5】『東京都航空住宅地図帳 昭和49年版 中野区版』公共施設地図航空/編,渋谷逸男/出版,1974年4月1日発行(M8/A/74)
(中野区立図書館レファレンス回答より)

『中野区文化の栞』によると、ほととぎすは昭和26(1951)年創業。1989/10/5付『ももぞの地域ニュース』には昭和46(1971)年に売却されたと書かれているが、1972年発行の地図にほととぎすが載っている。1974年発行の地図にはない。ほととぎすがあったのが1951-1971(昭和26-46)年として、なんとなく老舗料亭のようなイメージを持っていたのだが、営業していた期間は約20年間に過ぎなかった。

『全航空住宅地図帳 昭和48年度版 中野区版』1972年発行(左)と『東京都航空住宅地図帳 昭和49年版 中野区版』1974年発行(右)より

中野区産業振興センター敷地内に残る手水鉢。2022/4/6(左),21(右)(く)撮影

産業振興センターの土地の歴史

概要

ケヤキがあった産業振興センターの土地について約100年間の歴史を以下で論じる。

その前に、歴史の全体を概観できるように、まず、東京時層地図でわかる土地利用の変遷を見ておこう。また、以下で細かく論じた結果として得られることになる年表についても、ここで先に提示してしまおう。

  • 東京時層地図 下に貼った『東京時層地図』各地図中央の四角い土地が現在の産業振興センターの敷地だ。塩川邸と料亭ほととぎすの母屋は「殆どそのまま」とされている。勤労福祉会館と産業振興センターの建物は同じ。

  • 年表
時期 状況 土地所有者
1918年ごろ 屋敷建設、ケヤキ植樹 堀江悦之助
1923年 (関東大震災) 堀江悦之助
1923年か1924年 塩川一族が住み始める(→戦後まで居住) 堀江悦之助
1924 堀江悦之助死去 (登記は1932)
1945 (終戦) 堀江恭一
1949 堀江恭一が土地物納 大蔵省
1949 塩川妙子に払下げ (登記は1954)
1950 物納登記(1949)を錯誤抹消 堀江恭一
1950 堀江恭一が土地物納 大蔵省
1951 屋敷は(料亭千光園→)料亭ほととぎすに 大蔵省
1954 塩川妙子が所有権登記 塩川妙子
1962 堀江恭一死去 塩川妙子
1965 塩川三四郎死去 塩川妙子
1971 塩川妙子が土地売却(ほととぎす閉店) 国際菅平観光→住友不動産
1974 東京都が買取(ほととぎすの建物解体)→ほととぎす広場 東京都
1981 中野区が購入 中野区
1982 中野区勤労福祉会館・婦人会館着工 中野区
1984 中野区勤労福祉会館・婦人会館(後に女性会館)オープン 中野区
2014 中野区産業振興センターに変更 中野区
今後 産業振興機能移転、複合交流拠点に 中野区

誰がケヤキを植えたのか? 土地が辿った紆余曲折

⟪1918年ごろ⟫堀江の土地。堀江が屋敷を建設しケヤキも植えた

東京時層地図』を見ると、それまで何も描かれていなかった料亭ほととぎすの場所に建物が出現するのは、1916-1921(大正5-10)年の地図からだ。

土地登記簿によると元々ここは、江戸時代に中野村の名主だった旧家、堀江家の土地だった。1924(大正13)年に、第16代当主堀江悦之助(1866[慶応2]-1924年)の死去に伴い、第17代にして最後の当主だった堀江恭一(1889[明治22]-1962[昭和37]年、医師)が相続した。

昭和七年拾弐月弐拾日受附第壱八九五九号大正拾参年弐月弐日家督相續ニ因リ東京市中野區中野驛前参番地堀江恭一ノ爲メ所有權ノ取得ヲ登記ス

東京時層地図の1916-1921(大正5-10)年の地図に出現した建物は、恭一が土地を相続する前だから、悦之助が建てた屋敷と思われる。建設されたのは東京時層地図の前後からみて1910-1921年のいずれかの時期で、101-112年前に当たる。ケヤキは推定樹齢98-117年だったから、悦之助が屋敷の新築時に門前にケヤキ若木を植えたと考えられる。

「旧堀江家住宅」は、料亭ほととぎすの土地の西隣にあった建物として知られている。現在までにその旧堀江家住宅の半分が壊され、もう半分は中野バプテスト教会として残っている。

今回、土地登記簿を調べて、料亭ほととぎすの建物は元々、現在の中野バプテスト教会を含む広大な堀江家の土地屋敷の一部だったことがわかった。

中野バプテスト教会は1918(大正7)年の建築(参考: 協同組合伝統技法研究会『中野を語る建物たち』中野区教育委員会, 2011年)なので、同じく堀江が建てたと思われるほととぎすの建物も、同年ごろの建設と推測される。同年だとすると104年前になる。

『全航空住宅地図帳 昭和48年度版 中野区版』1972年発行(再掲)

中野バプテスト教会(旧堀江家住宅の現存する一部)。2022/2/19撮影

⟪1923年か1924年-戦後⟫堀江の土地に銀行家の塩川一族が住む

このあとこの土地は現在に至るまで紆余曲折を辿る。

1989/10/5付『ももぞの地域ニュース』に、「ここには大正の関東大震災後から、芸備銀行頭取の塩川氏が住み、戦後しばらくの後料亭『千光園』から料亭『ほととぎす』と変わりました」とある。「芸備銀行頭取の塩川氏」というのは、大蔵省(当時)や日銀にも出仕した塩川三四郎(1873-1965[明治6-昭和40]年)(注1)を指す。

1921年『人事興信録』の時点で塩川はまだ別の場所に住んでおり(注2)、1925年『人事興信録』(注3)で初めて住所がこの場所に移っている。数年おきに出版される『人事興信録』には1-2年程度古い内容が載るため、塩川が住み始めた時期は1923年(関東大震災の9/1以降)かその翌年となる。

堀江は建ててまだ数年ほどだった屋敷を、震災後に大量の住民が中野に流入していた大混乱期に、なぜ塩川の住居に供したのか。

その理由は、堀江悦之助が1900(明治33)年、発起人のひとりとして中野貯蓄銀行を設立、経営したこと(参考: 中野区『中野町誌 全』中野区, 1933年, p328)にありそうだ。同行が1922(大正11)年に東京中野銀行に改組された後も悦之助は生涯取締役だった(参考: 1924/7/10『官報』第3564号付録, p13)。1924/2/5付朝日新聞の死亡広告によると死去時は頭取だった。銀行経営の関係で悦之助は、大蔵省や日銀にコネを持つ塩川に何らかの恩義があったのではないか。

塩川が住み始めて間もない1924年に悦之助が死去し、土地は堀江恭一が相続した。塩川一族は戦後まで住み続けたが、土地は1949(昭和24)年に大蔵省に物納するまで恭一が所有していた。

塩川邸に関して、日銀の後輩の君島一郎という人物が1974年に公表した回顧録に次のような記述がある。

国電中野駅南の千光前町(今は中野二丁目)の大きな邸に住まわれた。後年私も同駅近くの桃園町(今は中野三丁目)に住まつたのでお訪ねしたことがある。敷地は広く二千坪はあつたろう。広壮な建物には全く目を見張つた。現在の黄檗普茶料理「ほととぎす」の門はそのまま、母屋は多少手を入れてあるものの、殆どそのままに昔の面影を残している。
(日本銀行金融研究所編『日本金融史資料 昭和続編 第二十一巻 演説・談話、金融史談』大蔵省印刷局, 1990年, p439)

君島の文章によると『中野区文化の栞』や『ももぞの地域ニュース』の写真にある料亭ほととぎすの門は塩川邸の時のそのまま。母屋も「殆どそのまま」だったようだ。第二次世界大戦でこの付近は米軍の空襲による焼失を免れた(参考: 中野区戦災・建物疎開地図)。

1)日銀名古屋支店長時代の塩川に関する仕事ぶりの一端がうかがえる文章がウェブで公開されている。→手島益雄『名古屋百人物評論』日本電報通信社名古屋支局, 1915年, p186-. (国立国会図書館NDLデジタルコレクション、インターネット公開)
2)大正10(1921)年発行の『人事興信録. 6版』(人事興信所編, 出版)で、塩川三四郎日本銀行調査局長、住所は麹町区平河町5ノ28。人事興信録. 6版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
3)大正14(1925)年発行の『人事興信録. 7版』になると、北海道拓殖銀行副頭取、中野町3071(現在の産業振興センターの場所)に住所が移っている。 人事興信録. 7版 - 国立国会図書館デジタルコレクション

1924(大正13)年7月 塩川邸時代の門。左から金城、国子、(不明)、佐久雄
塩川三四郎編『佐久雄の面影 故塩川佐久雄追悼出版』私家版, 1936年, 本文 p97より

なお『佐久雄の面影』に、平河町に住んでいたころの塩川の住居を友人が訪ねた際、佐久雄は中学生だったという記述がある。佐久雄の中学入学は1921年で、つまり震災前の1921年は塩川がまだ中野に住んでいなかったことがこの資料からも裏付けられる。

⟪1951-1971⟫料亭旅館千光園/料亭千光園→料亭ほととぎす。堀江が土地を大蔵省に物納→塩川に払下

昭和弐拾五年九月拾九日受付第壱九弐弐七號昭和弐拾弐年七月弐日付財産税物納許可ニ基ク中野税務署長ノ囑託ニ依リ大藏省ノ為メ所有權ノ取得ヲ登記ス
昭和貮九年四月拾五日受付第五七四号昭和貮四年五月九日拂下に基く関東財務局新宿出張所長の囑託に依り中野区千光前町壱四番地塩川妙子の為め所有権の取得を登記す

土地登記簿によると、堀江恭一が所有していたこの土地は1949(昭和24)年に大蔵省に物納されている。ところがそのあと、塩川三四郎の長男三千勝(1940年に死亡)の妻、塩川妙子に払い下げられた。料亭ほととぎすは1951年創業。妙子はその後1971年まで土地を所有しているので、ほととぎすがあった期間、土地は塩川の所有だったことになる。ややこしい。

1989/10/5付『ももぞの地域ニュース』に、塩川邸は「戦後しばらくの後料亭『千光園』から料亭『ほととぎす』と変わりました」と記されている。『中野区文化の栞』にも「ほととぎす(旧千光園)」とある。いったん千光園という料亭になってから料亭ほととぎすに変わったというふうに読める。

しかし詩人・彫刻家高村光太郎の日記を見ると、ほととぎす創業の1951年より後の1953/6/4に「普茶料理千光園にゆく」、1953/6/16に「千光園ほとときす行」、1954/4/3に「千光園にて夕食」との記述がある(参考: 『高村光太郎全集 第13巻』筑摩書房, 1995年増補版. この時期高村のアトリエが中野区桃園町=現在の中野三丁目=にあった)。

このことからみて、ほととぎすの「創業1951年」の最初の数年間には、千光園の時代が含まれている。高村の日記によると千光園も普茶料理で、おまけに「千光園ほとときす」という記述まであるので、1951年(創業)から1957年(『中野区文化の栞』刊行年)の間のどこかで、店の名前が変わったというより、ほととぎすという名が追加され、のちにほととぎすだけが使われるようになったと考えられる。

(7月追記) その後の調査によると、開業の頃の千光園は「割烹旅館」だった。千光園の経営はほととぎすと同じ酒井友次郎(『中野区名鑑』中野区民新聞社, 1952年)。「アベック」が利用する類いの旅館だった(『月刊食生活』1957年9月号)。別の資料によると酒井は塩川三四郎と同郷で、千光園以前は区内でパン製造などをしていた。

上掲1957年の『食生活』記事によると、ほととぎすは12品からなる夜コース1000円、昼コース600円、飲物は別。1957年の国家公務員初任給(大卒程度)は9200円、今はその25倍くらいだから、単純に25倍すると今の感覚で夜コース2万5000円、昼コース1万5000円。

なお、ほととぎす廃業後の1981年に、松本清張井伏鱒二がほととぎすの思い出として女性従業員数人の名前を挙げて近況を噂している(『清張日記』日本放送出版協会, 1984年. 追記ここまで)。

現在の産業振興センターに至る経緯と今後

⟪1971-1982⟫塩川が土地を売却→マンション建設騒動→都有地(ほととぎす広場)→区有地

堀江恭一は1962年に死去した。塩川三四郎も1965年に92歳で死去。

それから数年経った1971年、土地登記簿によると、ほととぎすの土地を所有していた三四郎の長男の妻、塩川妙子が土地を国際菅平観光株式会社に売り渡した。土地は次いで1972年に住友不動産に転売された。その土地を1974年に東京都が買い取り、1981年に中野区が買った。

土地登記簿に国際菅平観光と住友不動産の名が見える

この間の事情は『ももぞの地域ニュース』の各号に詳しい。

土地を購入した不動産会社は中高層ワンルームマンションを建設する計画だったが、住民の反対運動を受け東京都が勤労福祉会館用地として買い取った。その後中野区が管理を委託され子どものための広場「ほととぎす広場」とした(1980/7/5付『ももぞの地域ニュース』)。勤労福祉会館は区が建設することになったため区が土地を買った(1982/9/6付『ももぞの地域ニュース』)。

ワンルームマンションを建てようとした不動産会社は、既述した土地登記簿によると住友不動産である。2022年現在、住友不動産は堀江家住宅跡地のすぐ西に隣接した中野駅南口再開発で巨大な賃貸タワーマンションとオフィスタワーを建設中だ。因縁を感じずにはいられない。

ほととぎすの建物(=元堀江の屋敷=塩川邸)は、上記『東京都航空住宅地図帳 中野区版』昭和49年度版(1974年発行)までは残っていたように見えるが、昭和50年度版(1975年発行)の地図を見るとなくなっている。建物は都が土地を購入したころに解体されたことになる。

中野区は勤労福祉会館建設について住民と話し合い、両者の「最終合意検討案」図面(1981/1/16付『ももぞの地域ニュース』に掲載)で、件のケヤキを残すことが示唆された。勤労福祉会館の工事は1982年に始まった(1982/9/6付『ももぞの地域ニュース』)。

1984-2014⟫勤労福祉会館・婦人会館

勤労福祉会館・婦人会館は1984年に開館した(住民への提案、建設とも青山良道区長時代)。ただし、その後婦人会館は女性会館に改名している。

(勤労福祉会館・婦人会館のオープンを伝える1984/5/15付『中野区報』)

中野区勤労福祉会館・婦人センター — 株式会社 相和技術研究所

上のリンク先の設計会社「相和技術研究所」の画像と同アングルで 2022/4/7(く)撮影
ほととぎす主庭から移植した双幹のイチョウ(中央左)

平和・友好の記念樹と、ケヤキ以外の大木

当時、庭に配された平和・友好に関係する記念樹が現存している。青山区長は1982年に「憲法擁護・非核都市の宣言」を発出するなど平和行政を進めた。

寄贈者等 年月日 備考
1 紅しだれざくら 福島県田村郡三春町農業青年会議所 1985/5/11 サクラ
2 広島の花 夾竹桃 広島市長 荒木武 1985/5/16 キョウチクトウ
3 ナガサキの花 アジサイ 長崎市長 本島等 1985/5/16 アジサイ
4 平和を願う記念植樹 大ロンドン市議長ハリントン氏 1984/8/2 スダジイ
5 友好協力関係締結1周年記念 北京市西城区 1987/9/5 ナツメ
6 (ほととぎす前庭のもの) 堀江悦之助? 1918年ごろ クスノキ
7 (ほととぎす主庭から移植) 堀江悦之助? 1918年ごろ イチョウ(双幹)

1: 左。2: 右
3
4: 左。5: 右
6: ほととぎす前庭のクスノキ(左)
7: ほととぎす主庭から移植した双幹のイチョウ
中野区産業振興センター。2022/4/7(6, 7は5/10,6/8)(く)撮影

中野区の平和記念樹としては区立平和の森公園(中野区新井三丁目)の広島と長崎から寄贈されたポプラ、アオギリ、クスノキが知られている。参考: 中野区「平和の意義の普及」p25-26

しかし、たびたび中野区によって言及されホームページにも載っている平和の森公園の記念樹と違って、産業振興センターの記念樹は、現在ではあまり喧伝されていない印象がある。

クスノキ(6)、イチョウ(7)については、1947年の航空写真でその存在を確認でき、ケヤキと同時期の植樹と考えられる。ケヤキクスノキイチョウの位置を、1929(昭和4)年に堀江家が所有していた土地と主な建物とともにGoogle Maps上に重ね合わせて示す。

大きなケヤキクスノキイチョウ(移植前後)の位置
堀江家所有地(黒線)と建物(紫色。左:中野バプテスト教会、右:ほととぎす)

⟪2014-現在⟫産業振興センター

中野区勤労福祉会館・女性会館は2014年(田中大輔区長時代)、建物はそのままで中野区産業振興センターに変更され、運営は民間業者の指定管理になった。

2012/12/6中野区議会建設委員会資料 - (仮称)中野区産業振興センターの整備方針について

中野区産業振興センターに残る中野区勤労福祉会館の注意看板。2022/4/6(く)撮影

⟪今後⟫産業振興センターは移転、跡地は交流施設に

酒井直人区長時代になってから策定された中野区区有施設整備計画によると、今後、産業振興センター機能は中野駅北側の商工会館跡地に移転の見通し。産業振興センター跡地は「公益活動を主体とした複合交流拠点に転用し、シルバー人材センター等の移転を検討する。また、中高生の交流・ 活動支援の場としての活用を検討する」という。

(中野区区有施設整備計画より)

産業振興の施設から、勤労福祉会館の初心に戻って、若い人など区民の施設に復帰する感じなのかなという気もしないでもない。

つづきの記事(堀江老人福祉センターの顛末)

追記: 少し昔の中野を舞台にした小説を書きました

(中野非公式通信) & (く)