中野区産業振興センターの場所にかつて屋敷があった塩川家の墓の顛末 (2022年9月)

多磨霊園にあるはずの塩川家の墓を見にいったらなくなっていたので、どうなったか調査した。塩川は中野区産業振興センターの場所にあった屋敷に戦後まで住んでいた (敬称略。引用文を新漢字新仮名遣いに変更) 2022/9/8。塩川の華麗な姻戚関係を若干末尾に追記 10/18。

塩川家について

芸備銀行(広島銀行の前身)頭取だった塩川三四郎(1873-1965)と家族は、JR中野駅南東の中野区産業振興センター(東京都中野区中野2) の場所にあった屋敷に、大正末期から戦後まで住んでいた。詳細は下記記事参照。

多磨霊園にあった墓

下の写真は、都立多磨霊園にあった塩川家の墓(東京都府中市多磨町)の、Googleストリートビュー2019年6月撮影の全景と2018年6月撮影の墓誌だ。

塩川の墓は、建築家の照井春郎氏がブログ「設計室本日開店中」の「多磨霊園のデザイン(4)」で「納骨堂+ギリシャ神殿型」に分類し写真(8枚中8枚目)を載せている。

墓の正面3箇所の石に彫られた、横2本線が引かれた円は、三四郎の出身である信州佐久の名家、塩川家の家紋(丸に二つ引き)だ。白っぽい石(もしかして「佐久石」と呼ばれる志賀溶結凝灰岩か?)の墓誌の右端に、故人の名と思われる数行分の記載がある。三四郎と家族はクリスチャンだったのだが、写真で見る限り区画内に十字架などキリスト教らしい意匠は見当たらない。

埋葬されていた人々

この墓についての記録が、多磨霊園に埋葬された著名人を研究している小村大樹氏のブログ「歴史が眠る多磨霊園」の「塩川三四郎」の記事に残されている。

石の蔵状「塩川家之墓」。裏面に「昭和十年四月 塩川三四郎 建之」。墓所右側に墓誌がある。妻は伯爵の渡辺千秋の3女の千夏子。墓誌の刻みは、三四郎と千夏子の二男の塩川佐久雄から始まり、長男の塩川三千勝、千夏子、三四郎、三千勝の妻の妙子。
(小村大樹氏のブログ「歴史が眠る多磨霊園」の「塩川三四郎」より引用)

最初の1人

昭和10(1935)年3月、三四郎の次男で日銀に勤めていた佐久雄が満26歳の誕生日を前に病死した。佐久の塩川家から旧民法による分家をしていた三四郎は、佐久雄の死の翌月、多磨霊園に新しくこの大きな墓を建てた。

追悼本『佐久雄の面影』† に、佐久雄の友人だった吉川春寿(医学者、1909-1981年)の文が掲載されている。この墓地について次のような描写がある。

塩川君の遺骨を東京駅に迎えて一年は経った。多摩墓地に遺骨を斂めた時、ま新しい御影石の上に桜の黒い実がこぼれていたが、今頃あの墓石の隙間からは美草が萌え出ていることだろう。

† 塩川三四郎編『佐久雄の面影』私家版, 1936年。三四郎は佐久塩川の丸に二つ引き紋に思い入れがあったようで、この追悼本の内表紙にも描かれている

『佐久雄の面影』内表紙に描かれた佐久塩川の丸に二つ引き紋

あとの4人

5年後の1940年2月、三井銀行勤務で登山家でもあった長男三千勝が34歳で雪山で遭難死した。1945年に三四郎の妻千夏(通称千夏子)が64歳で、1965年に三四郎が92歳で、2005年に三千勝の妻妙子‡が94歳で死去した。

王子製紙社長、足立正の長女だった妙子は、結婚後わずか8年の29歳で夫と死別した後も中野の婚家に留まり、夫の死の25年後に舅の三四郎を看取った。三四郎は「日本一の嫁御寮」と絶賛していたという(斎藤虎五郎『金融史談速記録』日本銀行, 1966年)

小村氏の調査によると多磨霊園の塩川家の墓誌には、この5人、つまり佐久雄、三千勝、千夏(子)、三四郎、妙子 の名が記されていた。

三四郎の三男、金城(2001年ノーベル化学賞受賞者 野依良治の父)は野依家に養子に出たため、また、三四郎の娘の桃子と国子はそれぞれ結婚した(旧民法で他家に嫁に行った)ため、塩川の墓には葬られていない。

墓がなくなっていた

中野駅南に住んでいた塩川家と堀江家についての調査が一段落した2022年9月4日、私たちは多磨霊園の塩川の墓を初めて訪ねてみた。すると墓が綺麗さっぱりなくなっていた。

多磨霊園の塩川家の墓の跡。2022/9/4(く)撮影

多磨霊園の事務所で聞くと、「墓じまい」されたということだった。墓じまいの意味を知らなかったので尋ねたら、担当者は「遺族が管理できなくなって他のところに移された」と説明した。移された場所は多磨霊園内ではなく、他に移ったという。

墓が更地になっていたことに私たちは意外と衝撃を受けていたようで、いつ撤去されたか聞くのを忘れた。

墓の行方

その後調べてみると、施設変更制度というのがあった。多磨霊園で墓じまいした場合、別の都立霊園(小平か八柱)の合葬埋蔵施設に使用料無料で納骨できるらしい。ちなみに、多磨霊園の合葬施設は既に一杯になっている。

ネットで検索すると、小平霊園に移す場合が多いように思えたので、9月6日に訪ねてみた。小平霊園には遺骨の名を刻字できる石製墓誌があり、もし刻字するとしたら費用は1体8000円。埋蔵後は、毎年の管理料など費用が一切かからない。

塩川の5人の名は、小平霊園合葬埋蔵施設2号基(東村山市萩山町)の墓誌に刻まれていた。

小平霊園の合葬式墓地と塩川の5人の名前。2022/9/6(く)撮影

小平の合葬施設の石碑には、生没年も続柄も生前の地位も戒名(塩川はキリスト教徒だから元々戒名はないが)も洗礼名も、もちろん家紋もなく、改葬許可証に記されていた姓名だけが「天竜」の楷書体フォントでサンドブラスターを用いて機械的に彫られ整然と並んでいる。

下記は小平霊園の合葬施設のシステムを説明した石材会社のブログだ。

・小平霊園の合葬式墓地を見てきました | 霊園とお墓のはなし

合葬は2022年3月?

石碑で塩川の5人の名が彫られた位置より後には、2021年度分として85人の名がある。合葬されるのは最大1日8人ということなので、塩川の名が刻されたのは2022年3月中旬と思われる。

したがって多磨霊園の塩川の墓は2022年3月までに撤去されている。墓の返還工事終了届けは3月31日までに出せば翌年度分の管理料がかからないことを考えると、理屈に合っている。

2021年11月のGoogle Earth (下の画像、ピンクの点線は加筆。ピンク色の花は返り咲きのツツジ)には塩川の墓がまだ写っている。塩川の墓(6区1種16側)は首相を務めた田中義一の墓の西隣で、同じく士族・華族専用の「長期収蔵施設 1種」と呼ばれる1区画の間口6m×奥行8mを占めていた。塩川三四郎は平民で、この区画に墓を建てられたのは、妻の父の渡辺千秋が伯爵だったことと関係あるかもしれない。

石碑にない名前

三四郎の早世した2人の息子のうち、次男佐久雄は独身だった。長男三千勝は妙子との間に3人の子を遺した。3人の子の中で長男は、元全学連委員長でトロツキー研究所長だった塩川喜信だ。

三四郎が死んだ1965年の当時、中野駅南の屋敷の母屋は料亭「ほととぎす」に貸していたが、各種資料の情報を総合すると、三四郎と妙子と喜信は地所内の家屋に同居していた(ただし晩年の三四郎は軽井沢の別荘に滞在することが多かったが)と推測される。

代々木のキリスト教会で行われた三四郎の葬儀で喜信(当時28歳)が喪主を務めた*ことからみて、喜信が祖父の三四郎と母親の妙子を多磨霊園の塩川の墓に埋葬したと思われる。

* 塩川三四郎氏, 毎日新聞 夕刊 4版, 1965/5/3, 9面(訃報).

しかし2016年に81歳で死去した喜信の名は、小平霊園の合葬の石碑にはない。

家の終焉

三四郎が建てたころの墓は、旧民法の家における戸主の家族と代々の嗣子の家族を埋葬する場所だった。戦後の新民法で戸主の支配による家制度が廃止され、家制度を補強していた墓の役割も小さくなった。

喜信には子が4人いた。2022年の塩川の墓じまいは、もしかしたら「遺族が管理できなくなった」というよりは、三四郎の亡き嗣子の長男だった喜信が、祖父が分家してつくった家の墓に埋葬されるのを避けた帰結だったのかもしれない。

「塩川喜信(トロツキー研究所長)特別インタビュー(下)」『トロツキー研究』(51)2007. Win.

備考

「永掃」について

多磨霊園にはたまに草木がジャングルのように繁った墓がある。そういう墓にも「永掃」の掲示がある。田中義一の墓にも、撤去前の塩川の墓にも永掃の掲示があった。

多摩霊園内の草木が繁った墓と「永掃」の掲示。2022/9/4撮影

永掃の契約は既に失効しているらしい。下記の小村氏の解説参照。

「永掃」シンボルは富豪の象徴だった!?『なぜ多磨霊園には有名人のお墓が多いのか』 – TheNews(ザ・ニュース)

堀江の墓は宝仙寺

塩川邸の隣に住んでいた堀江の墓は宝仙寺(中野区中央2)にある。旧中野村名主堀江家最後の末裔だった堀江恭一が、家の地所内にあった一族の墓所を移した。

宝仙寺にある堀江家の墓。2022/8/8撮影

上掲した中野区産業振興センターのケヤキのブログを書いたあと、堀江の家の跡地がどうなったか調べて下記の記事にまとめている。

〈参考〉堀江家土地屋敷の考察と変遷がよくわかる動画

〈宣伝〉冊子『桃園橋の歴史』

追記: 塩川の華麗な姻戚関係

馬越の墓は池上本門寺

塩川三四郎の孫 喜信の妻 啓子の実家である馬越の墓は池上本門寺にある。

啓子の曽祖父で「日本のビール王」として知られた馬越恭平は一時、帝国商業銀行頭取の職にあり、三四郎を料亭で接待し同行への就職を誘ったという。その誘いを受け政治家志望だった三四郎東京帝国大学を出て最初に、腰掛けのつもりで同行に就職したのは1900年のことだ(塩川三四郎『金融史談速記録』日本銀行, 1965年)。

池上本門寺の馬越家の墓。2022/9/21撮影

左側のピンク色の墓石は「万成石(まんなりいし)」という、馬越家の郷里の岡山県井原市に近い岡山市万成で採れる高級石材だ。名前が刻まれている馬越恭一、武子は啓子の両親。

ピンク色の墓石。2022/9/21(く)撮影

馬越の墓の詳しい場所は下のブログの「簡単なお墓マップ(1/2)」の49、あるいは「詳しいお墓マップ(1/6)」の(16)にある。

池上本門寺の桜とお墓 - ほはとの日誌

渡辺千秋の墓は鶴見總持寺

塩川三四郎は帝大を1899年7月に卒業し、翌年、満27歳で渡辺千秋(男爵、後に宮内大臣伯爵)の次女 千夏と結婚した。(「27歳」の出典は『実業の日本』32(1), 1929年)

千秋の墓は神奈川県横浜市鶴見区の鶴見總持寺墓地(中央ハ1-23)にある。

右と中央は渡辺千秋とし子夫妻、左は次男 千春・留子夫妻の墓。手前の灯籠4基は千冬(千秋3男、国武養子)の献灯。2022/11/7鶴見總持寺で(く)撮影
千秋の早世した長男 享、幼時死亡した長女 雪野、離婚して実家に戻った4女 千菊の名も墓誌に記されている。2022/11/7鶴見總持寺で(く)撮影

千秋の墓を探すのに下の2つのブログを参考にした。とくに後者は多磨霊園の渡辺国武の墓に関するブログだが、兄の千秋の墓の区画番号の記載がある。

鶴見總持寺 墓地探訪 4 - 万遊歩撮

渡邊国武

渡辺国武の墓は多磨霊園と金地院

千秋の弟 渡辺国武は、伊藤博文の側近として大蔵大臣に就任した際、帝大出たての帝国商業銀行に就職して間もない満27歳の三四郎を、1900年10月蔵相秘書官に登用した。

国武は蔵相を辞めたあと三四郎を連れて欧州旅行に行った。1901/5/27東京朝日新聞によると伊藤博文の金で。横浜を出港した若狭丸には、国武と三四郎以外に渡辺の親類縁者が9人(三四郎の妻千夏を含む)乗船していた(1901/7/6Japan Weekly Mail)。神戸まで同行しての見送りだろうか。

国武の養子 渡辺千冬(千秋の3男、後に司法大臣。三四郎とは一高と帝大で同学で、欧州漫遊当時はフランス留学中)と3人で漫遊した(塩川三四郎『金融史談速記録』前掲)。3人は1902年7月、ロンドンを訪問した渋沢栄一を接待するためテムズ川の船遊びに参加した(竜門社『渋沢栄一伝記資料 第25巻』渋沢栄一伝記資料刊行会, 1959年)。

国武と千冬の墓は、塩川の墓が最近まであった多磨霊園(14区1種1側10番)にある。(参考ブログ: 渡辺国武(わたなべ くにたけ)-墓マイラーが行く。)

渡辺国武と養子 千冬の墓。2022/11/10多磨霊園で撮影

国武が義理の甥の三四郎を秘書官にしたり洋行に連れていったり目をかけたのは、いずれ自らの政治活動の手駒として考えていたと推測されるのだが、帰国後の1903年三四郎は日銀に入行し、政治家になる希望は断念した。日銀に17年勤めたあと北海道拓殖銀行で副頭取、芸備銀行で頭取。

なお国武だけの墓が東京都港区の金地院(金地禅院、東京タワーの目の前)にある。

金地院(東京都港区)の一角の広い区画にぽつんと建つ渡辺国武の墓。2022/11/11撮影

その他の婚姻関係について

帝大在学中の1898年当時、三四郎は中央学生基督教青年会館寄宿舎に住んでおり、隣の下宿屋にいた千冬が寄宿舎に遊びに来ていた。このとき同じ寄宿舎に松本脩(後に北海道拓殖銀行頭取)や鵜澤總明(後に弁護士、政治家、明大総長)もいた(内ヶ崎作三郎「吉野作造君と私」、赤松克麿編『故吉野博士を語る』中央公論社, 1934年)。

三四郎は千冬の妹の千夏と結婚したわけだが、同宿の松本もやはり千冬の妹(千秋3女)の鶴子と結婚している。何をやっとるんじゃ帝大生。

後年、同様に三四郎の同宿だった鵜澤の長男 晉(判事)が、三四郎の次女 国子と結婚した。しかし青山霊園(1種イ第2号23側2番)にある鵜澤家の墓誌によると、国子は1945年11月に29歳で死去しており、兄の三千勝、佐久雄と同様に短命だった。(なお三四郎の長女 桃子は結婚して中野の塩川邸の近くに住んだ)

青山霊園にある鵜澤家の墓。右側の墓誌に「✞鵜澤國子1916.4.29〜1945.11.13」とある。2022/11/11撮影

三四郎の長男 三千勝は、上述の通り王子製紙社長 足立正の娘 妙子と結婚した。時期は1932年ごろ、藤原銀次郎(戦前の三井財閥の中心人物の1人)の媒酌。戦前の王子製紙三井財閥系で、藤原は足立を抜擢し王子製紙の経営を再建させた。三四郎の就職の世話をした馬越恭平も1916年ごろ系列の電気化学工業の社長だった。藤原と馬越は茶道友達でもあった。三千勝は三井銀行に就職している。

三四郎足立正のころ高等教育機関を出た人の就職はよりどりみどりだった(足立正私の履歴書」, 『私の履歴書 第6集』日本経済新聞社, 1958年)が、昭和になって三千勝や佐久雄が帝大を出る頃には就職難だったようだ。三四郎は外交官試験の勉強をしていたこともある佐久雄を古巣の日銀の幹部に面会させ、佐久雄は日銀に就職した。もちろん幹部は佐久雄が「厳密な選考を経て」入行したとしている(『佐久雄の面影』前掲)。

華麗なる上流階級/エリートたちが数代にわたり結婚相手を(もしかしたら就職や地位も)融通し合ってきたことがわかる。しかも「上流階級」と書いたが、戦前の階層社会を考えると、塩川あたりは中流寄りだったかもしれない。

三四郎の孫(三千勝と妙子の長男)喜信は、東大農学部助手になった翌年の1967年に、馬越恭平のひ孫の啓子と結婚した。もっとも喜信は左翼活動家だったから、家同士の縁談には否定的だったかもしれないので、なれそめが見合いか偶然かは不明だ。上掲したインタビューで喜信は結婚の経緯に言及していない。

渋谷区富ヶ谷のベテル教会の熊谷政喜牧師は、三四郎と親交が深く三四郎の葬儀を執り行った。その息子が喜信の姉の逸子と結婚している(斎藤虎五郎『金融史談速記録』前掲)。そのことからみて、三四郎が父親のいない孫たちの縁談に心を砕いていたのではないかということは想像できる。

追記: 少し昔の中野を舞台にした小説を書きました

(中野非公式通信) & (く)

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