中野富士見中いじめ自殺事件の時に東京都中野区教育長だったことで知られる新井鎮夫(1921-2000)が陸軍中野学校出身で、敗戦直後に埼玉県飯能市(旧 入間郡吾野村)の山中に潜伏したことを前回伝えた。現地に行ってみたので報告する。2024/6/28記
飯能の新井鎮夫ゆかりの地
陸軍中野学校出身など、新井鎮夫についてわかったことを下のブログに記した。
新井が「私の新任時代 」と題して『児童心理』1987年7月号に書いた、若き日の飯能の山寺潜伏については上記ブログで既報の通り。その記述から、寄寓した山寺や教員を務めた山の小学校を特定したので、最寄駅でレンタカーを借り訪ねてみた。
◇子ノ権現
◇飯能市立南小学校(廃校)
子ノ権現
新井がいた寺であること
『児童心理』の記事によると、新井は東京帝国大学在学中の1943年12月に学徒動員され、陸軍中野学校を卒業して参謀本部の諜報機関に配属された。1945年8月「お手のものの情報で敗戦を知ると、いち早く機関を解散して各地に潜伏することになった。そうして逃げ込んだのが、その小学校から一時間ばかり山を登ったところにある寺であった」という。寺に遊びにきて仲良くなった子どもたちから村の学校の先生になってくれと頼まれた新井は、東京に戻って大学を卒業し、1947年9月その学校に小学校教員資格のない新任教員として赴任する。
赴任後また寄寓したその飯能の山寺の名を新井は明らかにしていないが「寺の山門近くには樹齢千二百年という杉の大木が二本あり」「天台宗の地域での本山」と書いている。飯能で山門近くに杉の大木2本といえば子ノ権現で、天台宗特別寺(別格本山に相当)でもあるので、隠す気がないように思う。


二本杉
新井によると静かな夜に「巨杉の高い頂から、笑いさざめく人声が聞こえてくる」ことがあった。山の人たちは「天狗の酒盛り」と呼んでいたという。新井はこの現象を「山のふもとの町分の祝事」のこだまとしている。子ノ権現の山の東麓には当時から吾野村(現 飯能市)大字坂石町分という人里があった。「町分」と地名を書いてしまっていることからも、寺がどこであるか全く隠していない。
その巨杉は1959年9月の伊勢湾台風で2本とも幹が折れ、北側の木は地上10メートル付近より上が失われた。さらに1974年8月、南側の木に落雷し樹皮が剥がれ発火し、幹に穴をあけて消火した。(飯能市(1976)『飯能市史 資料編 1 (文化財)』pp.60, 205)。飯能市ウェブサイトによると、2014年にも落雷の被害を受けた。

飯能市立南小学校(廃校)
飯能市立南小学校は、下のGoogle Maps のピンの位置付近にあった。
新井がいた小学校であること
新井は『児童心理』に、自分が勤めた小学校が「二十余年も前に廃校になってしまった」「複式学級であったが、それでも独立した本校であった」と書いている。
この記事が掲載された1987年から約20年前の1968年3月に、飯能市の中藤、赤沢、南という3つの小学校が原市場小学校へ統合され廃校になっている(飯能市教育委員会『令和5年度飯能の教育』p.4)。
学校と寺の位置関係について「小学校から一時間あまり山を登ったところにある寺」「宿とした寺から学校まで小一里ほどの道のりだが、朝は下りだから三十分ばかりで行けるけれど、帰りは登りだから二時間近くかかった」と述べている。中藤小と赤沢小は子ノ権現から遠すぎたり峠を越えたりするので、該当するのは南小だ。子ノ権現も南小の学区だったから、子ノ権現を遊び場にしていた近所の子どもたちが、新井に自分たちの小学校で先生になってほしいと頼んだとしたら筋が通っている。
2020年にハイキングで登った人は、学校東隣の権五郎神社から子ノ権現まで約90分を要している。
南小学校の沿革
南小学校の沿革は、飯能市史編集委員会編(1979)『飯能市史 資料編 3 (教育)』飯能市, pp.179-180 に詳しい。
1874(明治7)年、秩父郡五十六学区南小学校として創設。学区は中沢と飛村。数度の校名変更を経て、1947年4月に入間郡吾野村立吾野第五国民学校から南小学校に改称された。したがって1947年9月から1年ほどという新井の在任時の校名は吾野村立南小学校だ。1956年9月、入間郡吾野村の飯能市編入に伴い飯能市立南小学校と改称。1967年3月に原市場小学校へ合併し分教場となり、1968年3月廃校。
明治時代、子ノ権現に向かう途中の旅行作家が「普通教育、かゝる山奥にも普及して、小學校もあり」(大町桂月(1906)『東京遊行記』大倉書店, p.611)と感心している。1929(昭和4)年に吾野駅が開業する前は子ノ権現への本参道が中藤川(宗穏寺川)沿いだったこと(神山弘(1982)『ものがたり奥武蔵』岳書房,p.23)などからみて、これは南小だ。
南小に電話が架設されたのは1953年2月(飯能市立博物館「原市場村電話史」)のことだ。つまり新井がいた時代は学校に電話がなかった。それくらい山奥の小学校だった。また、南小で1955年に始まった完全給食1では、小沢とらという方が、毎日、コッペパンを背負って歩いて来ていた。ここで、製パン工場のある南高麗農協2と南小は、8kmは離れていた。

新井は帰途、児童の家で一休みしてから寺に帰るのが日課で、途中で日が暮れて翌朝児童の家で弁当を作ってもらって出勤したこともあったという。給料は、校長が教師4人全員の分を飯能から受領してきて配った(『児童心理』)。もっとも当時南小は吾野村立だったので、給料をもらいに行ったのは飯能ではなく吾野の役場ではないかという気がする。
注1 "1955年6月1日 住宅を改造し給食施設とする"『飯能市史 資料編 3 (教育)』p.180
注2 飯能市内給食パン工場は、市街に小山屋、丸十、松音屋パン店、郊外に精明農協、南高麗農協があった(『文化新聞』1957年3月19日3面)。南小から8kmという条件を満たすのは南高麗農協(現 JAバンクATMいるま野農業協同組合旧南高麗支店)で、パン入箱には「農業協同組合南高麗製パン工場」と記され、コッペパンは1日1500食を製造できた(『文化新聞』1954年9月11日1面)。
かつての南小と現在の状況
南小学校用地の東隣は権五郎神社になっている。西隣は私道のつきあたりに宗穏寺がある。

登記簿によると、南小の校地は宗穏寺側の土地にあとから権五郎神社側の土地が追加されている。
- 宗穏寺側の土地(大字南253-4)は、登記制度の開始時から学校用地
- 権五郎神社側の土地(大字南253-5、同252-2)は、1936(昭和11)年3月26日に畑から学校用地に変更
埼玉県立文書館収蔵資料検索システムの検索でも、校地拡張認可の件名が見つかる。なお、1942(昭和17)年には複式学級の解消が不認可となっている。
| 文書番号-件名番号 | 文書年月日 | 件名 |
|---|---|---|
| 昭3191-17 | 1935(昭和10)年9月9日 | 入間郡吾野村南尋常小学校校地拡張認可 |
| 昭4244-2-15 | 1942(昭和17)年3月23日 | 入間郡吾野村吾野第四第五国民学校学級編制不認可 |
『飯能市史 資料編 3 (教育)』によると、南小は1874(明治7)年3月にそれまで寺子屋だった宗穏寺の境内に創設され、1904(明治37)年5月に宗穏寺側(大字南253-4)に校舎が竣工した(経費1713円)。
1926(大正15)年に、校舎の改築工事着工から落成までの記録がある。
- 3月1日 校舎改築ノタメノ地均シ工事着手
- 4月23日より7月31日迄 仮校舎宗穏寺ニ於テ授業ヲナス
- 7月27日 竣工
- 9月29日 落成式
ここで、3月1日に着手したのは権五郎神社側の校舎新築工事で、4月23日には宗穏寺側に建つ既存校舎の改築も始まったと考えられる。
なぜなら、地ならしが既存校舎の改築のためとすると、遅くとも着手した3月1日から「仮校舎宗穏寺ニ於テ授業ヲナス」の前日(4月22日)まで、授業を行う教室がなくなってしまう。一方で、権五郎神社側の校舎については、それを背景に多数の児童が写った古写真(下掲 "昭和初期南小学校")が存在している。つまり、昭和初期に権五郎神社側に確かに校舎があった。ここで、昭和は大正天皇死去1926(大正15)年12月25日の翌日に始まることに注意しよう。
というわけで、地ならしがもう一つの校舎の新築のためとすれば、権五郎神社側は傾斜地(畑)を平坦地(学校用地)にする必要があり、かつ、3月1日から4月22日まで既存校舎で授業を行える。さらには「仮校舎宗穏寺ニ於テ授業ヲナス」という記述から、4月23日から既存校舎の改築も行われたということになる。
宗穏寺側、権五郎神社側それぞれの校舎の写真が残っている。現在の状況がわかる写真をあわせて掲げる。
宗穏寺側 (1904築-1926改築-1968廃校)
南小校舎が建っていた石垣上の土地に、現在は中沢自治会館(地域施設)がある。

権五郎神社側 (1926築-1930焼失?)
権五郎神社側の学校用地は、廃校までの長い間、南小の校庭として使われていた。


埼玉県立文書館編(1976)『埼玉県行政文書件名目録 : 埼玉県立文書館所蔵 社寺編』p.245(災害), p.217(建築・営繕(社殿)) に次のような記載がある。
| 文書番号-件名番号 | 文書年月日 | 件名 |
|---|---|---|
| 昭和2302-74 | 5.8.9 | 入・吾野村権五郎神社社殿焼失ノ件 |
| 昭和2468-19-4 | 5.9.25 | 入・吾野村権五郎神社本殿拝殿再建並幣殿新築竣工届 |
ここから、権五郎神社社殿は1930(昭和5)年8月ごろにいったん焼失し、もともとの 拝殿+本殿 が 拝殿+幣殿+本殿 とむしろ豪華になって再建されたとわかる。現存する社殿は、"昭和五庚午中秋"(1930年10月6日)と添書された扁額がかかっていることから、被災後すぐに再建された建物であるとわかる。

"昭和初期南小学校"の写真は、飯能市立南川小学校明治校舎(現存)とそっくりだ。だからといって、キャプションが昭和初期南川小学校の脱字の可能性はない。なぜなら、南川小学校明治校舎が西北西向きに建つ(Google Maps)のに、写真(右)で児童の影が北西(登校)~北(昼休み)~北東(下校)にしかならないからだ。背景の山の迫り具合も南川小学校とは異なる。
"昭和初期南小学校"の写真(左)は、画面右奥に権五郎神社社殿が写っているものの、屋根の角度などが現存する社殿と異なる。つまり、1930年の火災より前に撮影された写真とわかる。
この "昭和初期南小学校" という写真を除けば、権五郎神社側に校舎があったことを示す資料は存在しない。すると校舎は、神社を焼失させた火災で焼失し、その後再建されなかった可能性が高い。せっかく地ならしした土地なので、1935(昭和10)年ごろ、事後的に校地拡張申請やその認可を受けた登記をして、校庭として正式に用いることにしたのではないだろうか。
吾野では、昭和三年四月頃、東京セメント株式会社の手によって、大字坂石地内に石灰の吾野採掘所が開設され、その輸送のためもあって昭和四年九月武蔵野鉄道(注・現西武)吾野線が開通した。このため昭和六年吾野村事務報告書の概況には、「村民ノ生産業上及生活上ニ著シキ変化ヲ来シ、近時村ノ主要生産業タル養蚕及植林方面ハ益々悲惨ナル状態ノトキ、石灰石採掘事業ニ伴ヒ他町村ヨリ従事者ノ来住ニヨリ二、三年来現住戸数ハ著シク増加ヲ来シ従ツテ学校設備等ニ就テモ考慮ヲ要スルニ至リタリ」と述べている。
- 飯能市史編集委員会編(1985)『飯能市史 資料編 10 (産業)』p.307 (下線は筆者)
というわけで東京セメント株式会社は、吾野に巨費を投じて社会インフラの整備とりわけ校舎の新築・改築ができるようにしたと思われる。もしそうなら、地元としては浅野総一郎の胸像を作ろうとなるだろうし、もしも新たに作った校舎の火事のとばっちりを受けたとしたら権五郎神社は豪華になってあっという間に再建されるのではないか。ここで、校舎の再建についてだけは、山奥の小学校で失火を完全に防ぐこととか消火とかが困難だったりしたので、あきらめてしまったということになる。
木馬道 (1926以前-1963?撤去)
南小学校の2つの土地(大字南253-4, 5)を、現在、コンクリート擁壁上の幅員2mほどの道が結んでいる。この道が盛土で作られる前は、崖の側面を木馬道が接続していたと思われる。このことは、旧土地台帳附属地図で道が "水" の領域を通過することと、南小学校教諭による複式教育の実践に係る雑誌記事に内容とまったく無関係に "きんま(木馬)道をわたる山の子どもたち" と題する写真が配されていることから推定される。
写真の引用元
- 宗穏寺側
- "写真は飯能市立南小学校"
- 高橋文子(1963)「連載講座 複式教育の実践 同時同単元の指導実践例」『小四教育技術』16(7), p.74 (国立国会図書館所蔵)
- "統合前の南小学校 (土屋写真館提供:原市場小学校所蔵)"
- 原市場小学校統合50周年記念事業実行委員会・原市場小学校編(2017)『原市場小学校 統合50周年記念誌 明日への道をひらこうよ』p.14 (飯能市立図書館所蔵) [飯能市史編集委員会編(1979)『飯能市史 資料編 3 (教育)』, p.180 (国立国会図書館デジタルコレクション)と同写真]
- 中沢自治会館(建設中)
- 原市場小学校統合50周年記念事業実行委員会・原市場小学校編(2017), 前掲, p.14
- 円内は古沼太郎校長
- "写真は飯能市立南小学校"
- 権五郎神社側
- 「南小学校の校庭跡地」とキャプションのついた写真
- 原市場小学校統合50周年記念事業実行委員会・原市場小学校編(2017), 前掲, p.14
- "昭和初期南小学校"
- 飯能市史編集委員会編(1979), 前掲, p.137 (国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「南小学校の校庭跡地」とキャプションのついた写真
- 木馬道
- "きんま(木馬)道をわたる山の子どもたち"
- 高橋文子(1963), 前掲, p.75
- "きんま(木馬)道をわたる山の子どもたち"
PTA寄贈のフェンス
南小は崖地を造成して学校の敷地にしたため、北側が裏山で、南側は下に渓流が流れる切り立った崖となっている。崖下に落ちたら大怪我をしそうな立地の故か、崖沿いにネットフェンスが張ってあり、フェンスの緑色はかなり褪せている。

フェンスの西の端に錆びたプレートが残っており、かろうじて「寄贈 南小PTA 昭41.8」と読める。昭和41年は1966年だから、PTAがフェンスを寄贈した7カ月後の翌1967年に学校は分教場になり、その翌年の1968年に廃校になったことになる。

南小学校の2つの土地を結ぶ道が木馬道であったとしても、上掲の「しゃしんニュース パンをはこぶおばさん」の写真(下)のように、1963年には解消されていた。そして、道沿いにフェンスが寄贈される1966年以前は、もっと簡易な柵が設置されていた。
南小東隣の権五郎神社と西隣の宗穏寺
権五郎神社は鎌倉時代、宗穏寺は安土桃山時代の建立と伝えられる(飯能市史編集委員会編(1982)『飯能市史 資料編 5 (社寺教会)』飯能市,p.15,p.18)。


宗穏寺川
新井は、小学校が飯能の「渓谷の美しい名栗川をさかのぼり、さらに支流のひとつを登り詰めた所」にあったと述べている(『児童心理』)。名栗川は入間川上流を指す名だ。南小学校跡地の南側の崖下には、名栗川の支流中藤川の上流にあたる宗穏寺川が流れている。川の名は敷地西隣の宗穏寺に由来する。
おまけ: 飯能の神仏習合(=神仏混淆)
竹寺
新井の文章には登場せず今回の調査とは関係ないが、近くなので神仏習合(=神仏混淆)で知られる竹寺にも行ってみた。
しんぶつ‐こんこう‥コンカウ【神仏混淆】
〘名〙 神仏同体説に基づいて、日本固有の神と仏教の仏菩薩とを同一視し、両者を同じところに配祀して信仰すること。すでに奈良時代に始まり、以後、神宮寺、本地垂迹説の流行をみた。明治元年(一八六八)に「神仏判然令」が出され、その混淆が禁止された。神仏習合。
- 小学館 精選版 日本国語大辞典



通称竹寺は八王寺といい、天台宗の寺だ。境内にはたくさんの竹の鳥居や普通の鳥居、通年設置の茅の輪、稲荷社などがある。リーフレットによると「東日本唯一の神仏習合のお寺」を標榜している。
本尊は牛頭天王(仏教の神)で、スサノオ(神道)の垂迹とされ、スサノオはさらに武塔神(民間信仰の疫神)と同一視されている。竹寺は蘇民将来(伝説上の人物)の護符を授けるが、招かざる武塔神を貧しいなりに饗応で鎮めた蘇民将来にあやかり、疫病を退散させ豊かになるための縁起物だ。茅の輪は、武塔神が蘇民の娘につけさせて皆殺しから免れさせたことにちなむ。牛頭天王はまた薬師如来(仏教)の化身ともされており、薬師如来に供物をささげて無病息災を祈ることすなわち武塔神へのもてなしとされている。
仏教と土着の神を幾重にも祀るのは、お得なのかアバウトなのかわからないけれど、近代以前にすごく流行ったのだそうだ。天皇を中心とする国家神道を布教したかった明治政府に怒られたので、ほぼすべての寺社は神仏混淆をやめた。竹寺のように明示的に残っているのは珍しい。
急斜面を登ったところに「医王稲荷社」という聞き慣れない名称の社があった。小さい陶製の狐がたくさん置かれていた稲荷社は、医王(薬師如来の別名)も祀っているのだろうか。それとも単に本地仏が医王の寺で境内を鎮守する稲荷なのか。
子ノ権現
子ノ権現と通称される天龍寺は、竹寺ほど神仏習合を喧伝していないが、そもそも権現という呼称が神仏習合の産物だ。
ごんげん【権現】
①〘仏〙仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れること。また、その現れたもの。権化。
②特に神道の本地垂迹説において、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れたとする考え。また、その現れた神。熊野権現・春日権現など。
- 大辞林 第三版
本尊の子ノ聖大権現は、子ノ神(民間信仰)を子ノ聖(伝説上の人物)になぞらえ、その本地が釈迦如来(仏教)であるとして祀る。子(十二支)は、ネズミ(動物)、北(方位)、水(五行)のシンボルであることから、古くは火防の神とされていた(荒井貢次郎(1975)「武蔵国の神仏習合現象--飯能市・子の権現社とその縁起の場合」, 東洋大学東洋学研究所『東洋学研究』 9, pp.67-75)。山鬼波旬たちに足腰を火で焼かれた子ノ聖が助かったという伝説もあり、足腰への霊験あらたかとされる(祝部宿禰希烈(1860)『子の権現御縁起』天龍寺蔵本)。
境内には巨大わらじがあり、巨大下駄、巨大ハイヒールや多数の普通のわらじなどが奉納されている。狛犬や石灯籠は運送会社の寄贈だ。
杉の大木2本(二本杉)と山門の間に赤い鳥居がある。子ノ権現に至る古くからの本参道は、寺の山門の前にこの鳥居をくぐるルートになっている。そのほか境内には、小型の神社だったと思われる構造物もあった。
なお、子ノ権現の展望台や巨大わらじは、『ヤマノススメ』(サードシーズン第3話「飯能にアルプス!?」2018/7/17)の舞台となったアニメの聖地である。

権五郎神社
南小の敷地東側の権五郎神社の中には、飯能市にある円泉寺のブログによると、飯能市指定文化財の鏡が3面ある。1面は「十一面観音の懸仏」になっているそうだ。
かけぼとけ【懸(け)仏】
銅などの円板に仏像・神像の半肉彫の鋳像などを付けたもの。柱や壁にかけて礼拝したもので、平安後期に本地垂迹の思想から生まれ、鎌倉・室町時代に盛行した。
- 大辞林 第三版
また権五郎神社が二の鳥居に掲げる神額には「天台沙門僧正亮雄」という署名がある。1950年ごろからの諸資料(たとえば埼玉新聞社(1964)『埼玉年鑑 昭和40年版』p.288)に竹寺住職とある大野亮雄が揮毫したと思われる。神社のいわば表札を神仏習合で知られる竹寺の住職が書いているのは味わい深い(大野は2016年4月、99歳で死去(埼玉県佛教会『埼玉佛教』2016年7月29日号, p.16))。
神仏混淆の寺社は以前、愛知県の日間賀島で見たことがある。明治政府の目が離島まで届かなかったのだろうかと思ったりしたものだったが、山の中とはいえ首都圏の飯能に神仏混淆的なものが多く残っていることは寡聞にして知らなかった。
(中野非公式通信) & (く)