東京都中野区の中野通りにある桃園橋は1936年に「コンクリート造」の旧橋が現在の鋼鉄桁橋に換架。「木造」だったという通説を覆す論証(2021年6月)

約85年前に完成し鋼鉄の橋桁をもつ桃園橋(東京都中野区中央)は2021年10月ごろに撤去開始となる。現在の橋に架け換わる直前の旧橋は、通説では木造の橋だったとされている。本稿では、旧橋が木造ではなくコンクリートだったということを、写真や文献を比較することで論証する。2021/6/8記

通説

桃園橋については、『中野区史 下巻2』p.291 の「昭和7年頃の旧中野町橋梁表」に、

橋名 路線名 町名 橋長 幅員 面積 橋種 河川名
桃園橋 中野・蕨線 中野町 5.500米 4.650米 25.58平米 木橋 善福寺分流

と書いてある。ここで、「善福寺分流」というのは桃園川の昔の呼び名だ。

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『中野区史 下巻2』p.291
この記述を見た人は、昭和7年(1932)が現 桃園橋完成(昭和11年2月)の直前なので、「こう書いてあるということは現「鋼鉄桁橋」に架け換わる前の旧橋は「木橋」だったんだね」と思うはずだ。

このあたりのことは、本ブログの別記事でも書いたので参照されたい。そこでは、下の写真をあげて、昭和8年(1933)にコンクリート橋だったように見えるんだけど、どういうことなの? という疑問を書いた。

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現今の桃園橋。中野町教育会『中野町誌 全』, p.176, 昭和8年, 1933 より
実はこの古写真の桃園橋こそが、現在の鋼鉄桁橋に架け換わる直前の旧橋であり、見てのとおり、それは木橋ではなくコンクリート橋だったのだ。

このことを以下で論証していく。

古写真に写っているものを現在と比較する

この古写真と完全に同じ場所・アングルから撮影したのが次の写真だ。90年近くの時を隔てた2021年5月29日と1933年の景色がフェードイン/アウトする動画なので、好きなところで止めて観察してほしい。

撮影場所と範囲を下の地図に赤色で記入した。2枚の写真を比較してわかる旧 桃園通り(灰色)と旧 桃園川流路(青色)についても書き込んでおいた。

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往時の桃園通り(灰色)と桃園川流路(青色)。赤線は撮影範囲

2枚の写真を比較し地図に書き込んでみたら、次のことがわかった。

  • 古写真の桃園橋の幅員は、『中野区史 下巻2』が記した幅員「4.650米」よりも明らかに広い。このことから、幅員は、現 桃園通り(旧 府県道第68号 中野・蕨線。同路線が現 中野通りに付け変わる前)と同じ 6.06メートル(= 20尺)と考えられる。
  • 現 桃園橋が暗渠に対し斜めに架かるのに対し、古写真の桃園橋は、旧 桃園川流路に対し直交して架かる。
  • 旧 桃園川流路が現在のようにまっすぐだとすると、古写真の桃園橋の欄干の位置が配置不可能になる。したがって、旧 流路は曲がっており、古写真の橋のたもとの「御菓子司」は曲がった外側に接するように店を構えていたことになる。

『中野町誌 全』の古写真については、現在の写真とぴったり重なるのだから撮影地が桃園橋であることと、昭和8年より前の撮影であることは確実だ。すると、『中野区史 下巻2』が、昭和7年の桃園橋について「木橋」「幅員 4.650米」と記したのは誤りということになる。

文献を参照する

さて、ここまでは写真だけで論じたが、文献も参照してもうちょっと進んだ結論を出そう。

東京府統計書

東京府東京府統計書』の各年版から、桃園橋を通る路線「府県道第68号 中野・蕨線」の上にある橋梁の総数、種類数のデータを抜き出してみた。ただし、-1920、1928, 1937- の版は集計方法が異なり橋梁の種類数のデータが記載されていないので省略した。

路線総延長 橋梁総数 鐡橋 石橋 木橋 コンクリート
1921 (T10) 3里10町3間 (= 12878.18m) 8 - 5 2 1
1922 (T11) 3里10町3間 8 - 5 2 1
1923 (T12) 3里10町3間 8 - 5 2 1
1924 (T13) 3里10町3間 8 - 5 2 1
1925 (T14) 3里10町3間 9 - 3 - 6
1926 (T15, S1) 6506.0間 (= 11829.09m) 9 - 3 - 6
1927 (S2) 7012.6間 (= 12750.18m) 9 - 3 - 6
1929 (S4) 12750.17m 5 1 1 1 2
1930 (S5) 12750.17m 5 - 1 1 3
1931 (S6) 12750.17m 5 - 1 1 3
1932 (S7) 12520.49m 5 - 1 1 3
1933 (S8) 12920.49m 7 1 1 2 3
1934 (S9) 11773.58m 7 - 1 2 4
1935 (S10) 11760.88m 5 - 1 - 4
1936 (S11) 11864.73m 5 1 1 - 3

路線総延長は、中野・蕨線の計画部分が実現したり、既存部分がつけ替えられると変化する。橋も、架け換えだけでなく、同じ理由で総数、種類数が変化する。しかし、確実にいえるのが、このすべての年において桃園橋がカウントされているということだ。

すると、路線上から、1925 (T14) にいったん木橋がなくなる。したがって、1925 (T14) の時点で、桃園橋は木橋ではない

また、1936 (S11) への変化をみると、コンクリート橋が1つ減り、鉄橋が1つ増えている。これは、昭和11年2月にできた現 桃園橋への架け換えが統計の数字に反映されていると考えられる。

このことから、『中野区史 下巻2』における昭和7年の桃園橋の記述「橋種 木橋」は誤りであり、現 桃園橋に架け換わる直前の旧橋が木橋ではなくコンクリート橋であったことが、『東京府統計書』を用いても確認された。

郡町区の公式史書

この節では、『中野区史 下巻2』における桃園橋のデータ「木橋 延長5.500米 幅員4.650米 面積25.58平米」がまったく無関係の妙正寺川に架かる新橋のデータが混入したものであることを示す。つまり、このデータは、桃園橋の歴史を考える場合には無視すべきということになる。

「新橋 世田谷・中野線 中野町」(2-S8) の謎

上に掲げた1954年出版の『中野区史 下巻2』は、「昭和7年頃の旧中野町橋梁表」(pp.291-293)が昭和8年(1933)出版の『中野町誌 全』から、「旧野方町の区域に於ける橋梁について」の部分(pp.293-294) が昭和2年(1927)出版の『武蔵 野方町史』から、それぞれコピペしたものになっている。

そのことに注意しながら、次の4つの文献に現れる桃園橋の記述を比較する。ただし、説明の都合上、桃園橋だけでなく「新橋」についての記述も比較の対象とする。

  • 東京府多摩郡役所『東京府多摩郡誌』, 大正5年(1916).
  • 日本史蹟編纂会『武蔵 野方町史』, 昭和2年(1927).
  • 中野町敎育會『中野町誌 全』, 昭和8年(1933).
  • 東京都中野区役所『中野区史 下巻2』, 昭和29年(1954). (下表では pp.291-294 のコピペ部分を除く)

それぞれの資料での記述(架かる川、橋の規模、路線名、町名等)が一致し同一の橋であることが確実なものに、次のように同じ番号を割り当てて、ハイフンで区切って出版年の和暦も付けることで出典を区別する。リンク先はグーグルマップ。

注1:下表で、2-S8 の記述は「新橋 世田谷・中野線 中野町」である。世田谷・中野線の路線上に「新橋」は1つしかなく、神田川に架かる「中野新橋」であるはずだが、同じ資料(『中野町誌 全』)の他の行(3-S8)にすでに「中野新橋」があるため、ここでは別の番号を割り当てている。

番号-和暦 橋名 記述 出典 発行年 備考
1-T5 桃園橋 善福寺分流 所澤道(桃園、西町、上町) 木造 延長3間 幅員1.5間 東京府多摩郡誌, 中野町, p.320 1916 (T5) 府費支辨道
3-T5 新橋 神田上水 雜色道(新橋) 木、石造 延長4間 幅員1.5間 東京府多摩郡誌, 中野町, p.321 1916 (T5) 府費補助道
4-T5 新橋 井草川 大字下沼袋地内川越道 鐡橋 延長18尺 幅員15尺 東京府多摩郡誌, 野方村, p.799 1916 (T5) 府費支辨道 大正4年12月換架
4-S2 新橋 大字下沼袋地内川越道井草川に梁けり 武蔵 野方町史, 地勢及交通 p.14 1927 (S2)
1-S8 桃園橋 善福寺分流 中野・蕨線 中野町 木橋 延長5.500米 幅員4.650米 面積25.58平米 中野町誌 全, p.332 1933 (S8)
2-S8 新橋 世田谷・中野線 中野町 中野町誌 全, p.332 1933 (S8)
3-S8 新橋 神田上水 道玄420 混凝土 橋長13.672米 幅員9.000米 面積123.048平米 中野町誌 全, p.333 1933 (S8)
1-S12 桃園橋 桃園川 宮園通3ノ23、橋場町44 鋼鉄桁橋 面積100.80平米 中野区史 下巻2, p.299 1954 (S29) 昭和12年12月中野区役所土木課調
3-S12 新橋 神田川 千代田町72、本郷通2ノ34 鋼鈑桁橋 面積127.15平米 中野区史 下巻2, p.297 1954 (S29) 昭和12年12月中野区役所土木課調
4-S12 新橋 妙正寺川 野方町1ノ1081、野方町2ノ1289 鋼鈑桁橋 面積25.72平米 中野区史 下巻2, p.297 1954 (S29) 昭和12年12月中野区役所土木課調
妙正寺川の新橋について

上の表から、4-和暦 の橋(= 妙正寺川の新橋)だけを抜き出してみる。ただし、尺貫法はメートル法に直し、面積も計算する。

番号-和暦 橋名 記述 出典 発行年 備考
4-T5 新橋 井草川 大字下沼袋地内川越道 鐡橋 延長5.455米 幅員4.545米 面積24.79平米 東京府多摩郡誌, 野方村, p.799 1916 (T5) 府費支辨道 大正4年12月換架
4-S2 新橋 大字下沼袋地内川越道井草川に梁けり 武蔵 野方町史, 地勢及交通 p.14 1927 (S2)
4-S12 新橋 妙正寺川 野方町1ノ1081、野方町2ノ1289 鋼鈑桁橋 面積25.72平米 中野区史 下巻2, p.297 1954 (S29) 昭和12年12月中野区役所土木課調

この新橋の 4-T5 と 4-S12 を比べるとそれぞれが「鐡橋 面積24.79平米」と「鋼鈑桁橋 面積25.72平米」なのだから、(有効数字2桁の尺貫法をメートル法換算した際に出る程度の)誤差の範囲で、確かに同じ橋とわかる。4-S2 には、橋種、面積のデータの記載がないが、架かる川の位置も道の幅員も同一なのだから、4-T5 と 4-S12 が示す橋の大きさと同じようなものと考えられる。つまり、1916 (T5) から 1954 (S29) までの長期にわたり、妙正寺川の同じ地点に「新橋」という橋が同一規模で架かっていたことになる。

すると、不思議なことに、1933 (S8)の桃園橋のデータ 「延長5.500米 幅員4.650米 面積25.58平米」(1-S8) と妙正寺川の新橋のデータ「延長5.455米 幅員4.545米 面積24.79平米」(このデータは 4-T5 から採ったが 1916 (T5)~1954 (S29) で橋は同規模だった)とが誤差の範囲でだいたい一致していることに気がつく。

『中野町誌 全』の編者のミス

実は、『中野区史 下巻2』とそのコピペ元である『中野町誌 全』の両方において、1-S8 と 2-S8 は隣り合う行である。

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中野町敎育會『中野町誌 全』, pp.332-333, 昭和8年, 1933 より
このことから、『中野町誌 全』の編者が、編纂の過程で次のような間違いをしたのが確実だ。

  • 編者は、まず、神田川の新橋を 2-S8 と 3-S8 の2ヶ所に重複してリストアップ
  • 重複に気がついた編者は 2-S8 の橋についてデータだけを削除。
  • 編者は正しいデータ(?)を探し求め、(中野町域外の)妙正寺川の新橋のデータ「延長5.500米 幅員4.650米 面積25.58平米」を見つけた。そして、空欄を埋めようとして、誤って隣りの行にある桃園橋(1-S8)の欄に記入

そういうわけで、1-S8 に記された桃園橋のデータ「木橋 延長5.500米 幅員4.650米 面積25.58平米」はまったく無関係の妙正寺川に架かる新橋のデータが混入したものであり、橋種のデータ「木橋」の部分も信用に値しないから、桃園橋の歴史を考える場合には無視すべきといえる。

それにしても、『中野町誌 全』の編者は桃園橋の現地を見に行ったことがなかったんですかね。

桃園橋の架け換えの歴史

桃園橋から約250m、桃園川の古い流路を遡った地点にコンクリート造の橋「庚申橋」の跡がある。片側の欄干が残っており、その親柱には「大正13年1月26日成」と刻んである。

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2021年5月28日撮影
1枚目「大正十三年一月二十六日成」:画面奥に染物・洗張の老舗
2枚目「かう志んばし」:画面右奥への家々の境界が流路跡

東京府統計書』から作った上掲の表で、府県道第68号 中野・蕨線の路線上の橋梁数の変化をみると、庚申橋が完成したのと同時期の 1925 (T14) に、2つあった木橋が無くなり、コンクリート橋に架け換わっている。このときに桃園橋が木橋からコンクリート橋に架け換わったと考えられ、1923 (T12) の関東大震災のあと、震災復興として関東各地の道路や橋梁に多額の費用が注ぎ込まれ整備されたという事情も、それを裏付ける。

最後に、桃園橋について 木橋→コンクリート橋→鋼鉄桁橋 という架け換えの歴史をまとめる。

  • 1916 (T5):このころは「木橋 延長3間 幅員1.5間」(3間 = 約5.4545m。1.5間 = 9尺 = 約2.7272m)
  • 1924 (T14):架け換えて「コンクリート延長3間 幅員20尺」(20尺 = 約6.0606m)
  • 1936.2 (S11.2):架け換えて「鋼鉄桁橋 延長7.376メートル 幅員15.000メートル 面積100.80平方メートル」
  • 2021.10 (R3.10):撤去予定

【注記】尺貫法をメートル法に換算すると、有効数字を見誤るので、そのままとした。コンクリート橋の延長に関しては橋が旧 桃園川流路に直交していたので 1-T5 と同じ数字を用いた。また、鋼鉄桁橋の(通行方向の)延長と(道路の)幅員に関しては撤去時に東京都下水道局が開示した図面の数字、平行四辺形の面積に関しては 1-S12 の数字を用いた。

(く)

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「橋園桃の今現」2021年5月29日撮影

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