豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)は、池田大作(創価学会第3代会長)著の小説『人間革命』の冒頭で主人公の "戸田城聖" が出獄したとされている創価の聖地だ。『総合』という雑誌の1957(昭和32)年9月号の対談記事で、本物の戸田城聖(創価学会第2代会長。公明党の基盤をつくった)ご本人が、中野の豊多摩刑務所ではなく巣鴨の東京拘置所を出獄した旨の発言をしているので報告する。2023/11/22記(敬称略)
対談記事
⟨対談⟩ 戸田城聖(創価学会会長)
神山茂夫(元日本共産党中央委員)神山 あんたと僕とは同じころにはいっていたのだね、巣鴨に……。
戸田 私は昭和十八年の七月六日から二十年の七月三日までおりました。先生は……。
神山 僕は十七年からいた。
戸田 それはずいぶん早いんだな。
神山 あんたは何舎にいたの。
戸田 僕は二舎。二階の三十二房だ。独房ですよ。
神山 あんたの下に僕はいたんだ。あんたがたの並びに宮本顕治がいたんだよ。
戸田 いた、いた、あれはいばっていたよ。どんな貴族さんがここにいるのかと思ったよ。大島の着物を着て散歩注1していやがるのだよ、なんて偉い人かしらと思ったよ。
神山 おれは君の下にいたが……。おれはあんたの『人間革命』という小説注2を読んだが、あんたの記述はずいぶん違っているよ。警視庁の房の間取りなんかも勘違いしている。
戸田 それは勘違いなんかしてはいないのだよ。小説というものは……。
神山 そうそう、そういって逃げるだろうと思った。
戸田 あんなもの、ほんとうに書いたらおかしくなるよ。ところであんた何悪いことをやったの……。
[以下略]
—— 東洋時論社編『総合』東洋経済新報社, 1957年9月号, p.180 (下線は筆者)
まぎれもない戸田城聖先生ご本人が、「(巣鴨に)昭和十八年の七月六日から二十年の七月三日までおりました。」と発言している。すなわち、戸田が1945(昭和20)年7月3日に出獄したのは、池田大作先生の著書『人間革命』がいう豊多摩刑務所(中野刑務所)ではなく、巣鴨の東京拘置所であるということになる。
念のため、上の対談における両者の発言に矛盾がないか確かめておこう。
神山茂夫 (1963)『愛する者へ : 神山茂夫獄中記録』(国立国会図書館デジタルコレクション)によると、神山は、1941(昭和16)年5月1日に逮捕され、赤坂表町署豚箱、警視庁留置場を経て1942(昭和17)年5月1日から巣鴨の東京拘置所に収監されている。独房は二舎1階32房だった。1945年5月6日、二舎2階17房の宮本顕治に無期懲役の大審院判決が言渡され、その翌日、網走刑務所への移送を控えた宮本が2階から1階の独房に移された。このとき、神山や宮本が散歩して連絡をすることが難しくなるように、1階の神山と2階の戸田とで独房を入れ替えた。この結果、神山が2階32房、戸田が1階32房になった。神山は6月30日に豊多摩刑務所に移送されている。このころには「米軍機の東京空襲が激化して、拘置所も裁判所もがたがたとなり押送自動車までが使用できなくなって、被告人がジュズつなぎになったまま、トラックや省線電車で押送されるようになった」という。神山が移送先の豊多摩刑務所についても他の収監者や房の場所を詳述している中に戸田への言及はない。神山は終戦後の10月9日に豊多摩刑務所から出獄した。
このように、上の対談における神山と戸田の発言は、『愛する者へ : 神山茂夫獄中記録』に記された内容と一致している。神山は、自身が被告人としてジュズつなぎになったままトラック、駅から駅は省線電車で押送される際にも、豊多摩刑務所に収監されてからも、戸田が見えず、移されてきたという話も聞かなかったからこそ、「あんたと僕とは同じころにはいっていたのだね、巣鴨に……」という発言で対談の口火を切ったのだ。
注1 当時の刑事施設では、看守による差入れの横取りが横行していた。囚人は、あえて横取りさせることで看守を手懐けていた。独房の扉は廊下からなら開けられる。火災報知器を鳴らして扉を開けさせ、廊下を移動し、別の独房の扉を開け、そこの囚人と交流することができた。これを「散歩」と呼んでいた。
注2 『人間革命』という同じ題名の小説に戸田城聖著のものと池田大作著のものがある。ここで神山が「読んだ」と言っているのは戸田城聖著のもので、"戸田城聖"が豊多摩刑務所を出獄するシーンはない。このシーンのある池田大作著のものは、この対談の翌年に戸田が亡くなった後の1965年1月1日に聖教新聞紙上で連載が開始されている。
いままでの議論
戸田城聖が豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)から出獄していないと思われることについては、本ブログで記事を4本書いた。
今回発見した雑誌『総合』の対談記事は、これら4本の記事での所論を不要としてしまうインパクトがある。しかし、問題をよく理解するためには必要であると考え、過去記事へのリンクを貼っておく。
次の記事では、中野区平和資料展示室のパネルに書かれた「戸田城聖」を問題にした。池田大作著の『人間革命』は小説だから史実と異なっていても問題はないが、中野区のような地方公共団体が豊多摩刑務所収監者の名前として史実でない戸田城聖を挙げるのは歴史修正主義の政治的行為ではないのか。
大宅壮一文庫に行ってみた
雑誌『総合』は、たった6号で廃刊となっている。国立国会図書館や大学図書館にも所蔵があるが、今回の調査では、大宅壮一文庫(東京都世田谷区)で閲覧してきた。
大宅壮一文庫は、緑深い松沢病院の隣に立地する。図書館サービスが大変に充実しており、快適に調べ物ができる。
「確かな資料はない」=聖教新聞の見解
戸田城聖の豊多摩刑務所出獄は、たとえば中野で創価学会の信者を鼓舞する場合に用いられてきた。池田大作は、それが小説上の虚構ではなく史実だと吹聴し、史実である根拠をたんに戸田の妻に聞いたからとしていた。
にもかかわらず、聖教新聞は、それについての確かな資料はないとしている。
池田先生と東京・中野区 「兄弟会」の模範の原点
[中略]
戦争末期の1945年(昭和20年)6月29日。戸田会長は巣鴨の東京拘置所から、突如、中野の豊多摩刑務所に移送された。
なぜ出獄の4日前に中野へ移されたのか。確かな資料はない。しかし、連日の空襲で首都の治安機能は、すでに限界に達していた。
裁判所や司法省も空襲にあい、巣鴨の拘置所にその機能を移す。玉突きのようにして、巣鴨の収監者が中野に移された事実が残っている。
投獄された他の学会幹部は、過酷な取り詞べに、ことごとく信念を捨て去っていった。たった一人、戸田会長だけが師匠との誓いを破らなかった。
「生涯、外に出られなくても構わん。死ぬまで戦い抜く覚悟があれば強いものだ。必ず勝てる」
戸田会長は、巣鴨から中野に移された時点では、いまだ「城外」と名乗っていた。生きて牢を出たならば「城聖」と改名する決意を心中深く固めていた。
7月3日、午後7時──。
豊多摩刑務所の鉄扉を出た、その瞬間。広布の大将軍たる「戸田城聖」が、中野の地に生まれたのである。
この恩師の覚悟こそ、名誉会長が中野の同志に一貫して教えてきた信念の道である。
84年(昭和59年)の6月、名誉会長は中野兄弟会の代表とともに関西指導に赴いた。
戸田会長の出獄は中野であり、名誉会長の獄中闘争は大阪である。
大関西と同じように、東京に常勝の城を築きゆけ!
師が打ち込んだ "中野魂" である。
—— 聖教新聞『あの日あの時 IV-10』2009年6月5日, 3面 (下線は筆者)
上で述べたように、中野へ移されていないという確かな資料が今回発見された。
亡き師が打ち込んだという "中野魂" とはいったい何だったのだろうか。
(く)