中野区平和資料展示室の解説パネルに豊多摩刑務所収監者として戸田城聖が加えられた経緯

中野区立総合体育館(東京都中野区平和の森公園)にある平和資料展示室に設置された豊多摩刑務所についての解説パネルには、主な収監者10名からなるリストが載っており、そのうちの1人として戸田城聖(創価学会第2代会長)が挙げられている。小説『人間革命』におけるフィクションとしての豊多摩刑務所(中野刑務所)からの出獄が史実としてパネルに載るに至った経緯を中野区に情報公開請求して調べた。2022/12/14記(敬称略)

刑務所の門と戸田城聖

豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)は、池田大作(創価学会第3代会長)の小説『人間革命』で主人公の戸田城聖が出獄したと設定されている創価学会の聖地だ。これについては「中野刑務所正門と『人間革命』」と題し正・続2編の記事を書いた。

正編では、小説に描写された豊多摩刑務所から中野駅までの様子がおよそ現実離れしていることを根拠に、主人公の戸田城聖が出獄した門として設定されている豊多摩刑務所表門についてもその設定を虚構と断じた。

続編では、現実の戸田城聖の銘板設置という創価学会20年越しの宿願が、2020年、平和資料展示室のパネル(下の画像)に戸田城聖の名が載ったことによりついに叶った、と書いた。このパネルを一般公開初日に見に訪れて「戸田城聖」の字にズームインする動画を撮るなど喜びをあらわにする公明党の区議会議員のツイートも記事中に貼った。

主な収監者として「戸田とだ城聖じょうせい」の名前が挙がっている。開示文書24「解説パネル_201019_final」(最終校)より。

なお、大喜びしたのは公明党のその区議会議員ひとりではなかったようだ。

というのは、2021/5/26、コロナによる緊急事態宣言で全館臨時休館中のはずの中野区立総合体育館を、会議室を利用するという名目で、公明党国土交通大臣赤羽一嘉がわざわざ見に訪れて、批判を浴びているのだ。

(リンク切れの場合: Wayback Machine)

これは、パネルに載った「戸田城聖」という4文字が、全国の創価学会関係者にとって大きな意味を持つものになってしまったからではないだろうか。

そこで本稿では、中野区があれこれ口出ししてパネルに(小説の主人公の)戸田城聖(史実として)載せようとがんばったということを、情報公開された文書に基づき明らかにしておこうと思う注1

注1はここに折りたたんであります

注1
公共団体が責任を持って内部で、あるいは外部委託して作成した学術・教育的なパネルは、学芸員や研究者のような相当の見識を持つ者が一次資料に基づいて作成した、権威あるものと社会的に認知されるのが普通である。

したがって、(小説の主人公の)戸田城聖の名の載ったパネルは、Wikipediaや辞典などで出典にすることが可能な二次資料にあたると将来的に誤解されてしまう危険性が高い。そこで本稿では、戸田城聖の名が載るまでの過程を情報公開請求で明らかにしておくことで、このパネルを根拠にした歴史修正が行われる可能性を潰す。

情報公開請求

中野区に次の内容で情報公開請求した。

中野区平和資料展示室には『中野区の平和への取組:中野のまちと刑務所』というパネルがある。中野区と展示物制作展示業務委託された株式会社ムラヤマ(他に関係した第三者が居ればその者も含む)の間で、当該パネルに使う写真、文章、レイアウトその他の内容を意思決定した過程がわかる文書の一切。たとえば、設計書、仕様書、打合せ記録簿、回議用紙。
—— 2022/9/2付で情報公開請求

「文書の特定に時間がかかる」という理由で延長された決定期限(11月1日)から1か月ほど過ぎた11月25日、ようやく全部開示決定が出た。ただし、光ディスクでの写しの交付(50円)を希望したにもかかわらず紙で交付され、全部で434枚、6,640円かかった。

以下、開示された紙の文書をスキャンしPDFにしたのでまとめて公開しておく。

リンク 内容 日付
1 平和資料展示室検討資料 2017/04/21
2 平和資料展示室検討資料 2017/05/12
3 平和資料展示室検討資料 2017/10/03
4 新平和資料展示室検討資料 2018/05/25
5 新平和資料展示室パネル(案) 2019/11/22
6 新平和資料展示室パネル(案)修正版 2019/12/27
7 中野刑務所パネル案 2020/01/30
8 中野刑務所パネル案 2020/02/01
9 中野刑務所パネル案 2020/02/05
10 刑務所関連画像タイトルリスト 2020/02/07
11 刑務所関連画像タイトルリスト2 2020/02/18
(14) (仮称)中野区平和資料展示室設計業務委託 展示設計図書 2020/02/28
12 パネル文言修正内容 2020/08/19
13 パネル文言修正内容 2020/08/21
14 起案文書 2中企企第727号(仮称)中野区平和資料展示室の整備委託費について 2020/08/24
15 【見積用2】パネル文言修正内容 2020/09/01
16 【別添1】展示設計図書別紙(パネル等文言修正内容) 2020/09/03
17 解説パネル_1005_check 2020/10/05
18 パネルリスト 2020/10/08
19 【別添1】展示設計図書別紙(パネル等文言修正内容) 2020/10/09
20 パネルリスト 2020/10/09
21 【ルビ入れ改訂版】展示設計図書別紙(パネル等文言修正内容) 2020/10/14
22 解説パネル_201015 2020/10/15
23 【最終確認版】展示設計図書別紙(パネル等文言修正内容) 2020/10/16
24 解説パネル_201019_final 2020/10/19
25 解説パネル取付順_1026 2020/10/26
26 平和資料展示室開設パネル展示(案) 2020/10/26

開示された文書を読む

パネルなど展示物の制作展示業務は、中野区企画部企画課平和・人権・男女共同参画係が、設計とそれに引き続く整備の両方を(株)ムラヤマ(空間ディスプレイ業。本社: 東京都江東区豊洲3−2−24)に委託して行った。

開示文書14に含まれる、設計段階の成果物「展示設計図書」が2020/02/28付であることから、設計が終わり整備にかかる段階でまだパネルの内容は確定しておらずそれ以降(開示文書12-26)で大幅に変更していることが分かる。

整備に入った段階で設計が済んでなかった点については、平和資料展示室の開設が数カ月遅れていることに気づいた浦野委員(共産)の中野区議会総務委員会での質疑(下線を付した)からも、うかがい知ることができる。

浦野委員:スケジュールのところで伺いたいんですが、本来6月に開設の予定だったと思うんですね。体育館の時期が延長してということもあるんですが、ただ、先般厚生委員会で報告のあったその体育館の開設時期ともこの平和資料展示室 の開設が遅れると思うんですけれども、その理由について伺います。

藤永企画部ユニバーサルデザイン推進担当課長:平和展示室の開設につきましては、従前は体育館開設に合わせてというふうに考えてございましたが、展示内容のチェックのほうを行っていたことと契約に関して業者との調整に時間がかかってしまってここまで遅れてしまったというところでございます。申し訳ございません。

浦野委員:そうすると、遅れた理由としてはコロナの何か影響ではなくて、今御説明のあったところでの影響で約1か月ちょっと遅れるというような、1か月というか、当初からすると4か月になりますけれども、ということでしょうか。

藤永企画部ユニバーサルデザイン推進担当課長:既に昨年の設計の中でパネル等々の表記については設計しておりましたが、その案の表記等々をもう一度こちらのほうでチェックをかけていった。また、契約等々についての手続に時間がたってしまったというところでございます。コロナの影響ではございません。

—— 2020/9/1中野区議会総務委員会会議録より

戸田城聖の名は最終的に「中野のまちと刑務所」と題する解説パネル(上掲)に載り、2020/11/6にオープンした平和資料展示室の壁面に常設展示された。しかし、後述のように、パネルの校正が完了するまでの過程では、コーナーの入口のイーゼルに設置するパネル、あるいは、特別展示用の解説パネル(「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」、計画のみで未成の「主な収監者」)に載せることが検討されるなど、紆余曲折を経ていた。

どのパネルに誰の名を豊多摩刑務所の主な収監者としてリストアップすることにしていたかをまず表で示してから、各指示・ゲラの内容について詳しい説明を加える。ここで、「指示」は中野区が業者へ指示を出す際の文書、「ゲラ」は業者が作成したパネルの校正刷り(ゲラ刷り)だ。

2020年 (新コーナー) 中野のまちと刑務所 昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所 主な収監者
指示 1/30 (新コーナー) - 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,戸田城聖   
指示 2/5 - (略歴削除)
ゲラ 2/28 (白紙) 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高      (他のパネルに名前移動)
3/31 【年度末。設計が終わり新年度は整備だけのはず】
指示 8/19 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,大塚金之助,戸田城聖 -
9/1 【区議会で共産党に遅れを糺される】
指示 9/3 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,戸田城聖 -
ゲラ 10/5 (コーナなし) 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,戸田城聖 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高 -
指示 10/9 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,戸田城聖,大塚金之助 -
ゲラ 10/15 - 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,戸田城聖,大塚金之助 (収監者名削除) -
校了 10/19 - 大杉栄,荒畑寒村,亀井勝一郎,小林多喜二,中野重治,埴谷雄高,河上肇,三木清,戸田城聖,大塚金之助 -
2020/1/30の指示

すでに設置が決まっていた「中野区の平和への取組」というコーナーとは別に、「中野のまちと刑務所」という新コーナーを設ける検討が始まった。

新コーナー用に「主な収監者」と題する解説パネルを作成し、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高戸田城聖の7名をそれぞれの略歴付きで載せることが指示された。戸田城聖の略歴は次の文言だった(太字は筆者)。

戸田とだ城聖じょうせい(1900(明治33)年~1958(昭和33)年)
 宗教家。創価学会の第二代会長。創価学会の前身である創価教育学会の旗揚げに参加し、理事長になる。学会の政治進出を理論化し、公明党の基盤をつくった。

細かいことだが、この指示には公明党の基盤という語句がある。しかし、創価学会の公式見解としての略歴には公明党という名詞は1つも含まれてなくて、戸田城聖がつくったのは「創価の基盤」ということになっている。

2020/2/5の指示

「主な収監者」と題するパネルからそれぞれの略歴の文言を削除し、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高戸田城聖の7名について名前だけを載せることが指示された。

2020/2/28のゲラ
  • 展示設計図書に含まれるゲラ  一般には設計と整備が相異なる業者に委託され、その場合は「展示設計図書」のゲラがパネルの最終校(完成形)。

「中野のまちと刑務所」と題するパネルが、イーゼルに設置するコーナーパネルとしてではなく、壁面に設置する解説パネルとして作成された。

「主な収監者」と題するパネルは作成されず、主な収監者のリストは「中野のまちと刑務所」と「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」という2枚の解説パネルに載った。

主な収監者としてリストアップされたのは、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高の6名だけで、2020/2/5の指示に反して戸田城聖の名前が載らなかった

2020/8/19の指示

主な収監者のリストについて、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清大塚金之助戸田城聖の10名を載せることが指示された。つまり、河上肇三木清、大塚金之助を追加し、末尾に戸田城聖も載せることが指示された

2020/9/3の指示

主な収監者のリストについて、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖の9名を載せ、大塚金之助については載せないことが指示された。

2020/10/5のゲラ

2枚のパネルで主な収監者のリストが食い違うようになった。

「中野のまちと刑務所」には2020/9/3の指示通り、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖の9名が載った。

「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」には2020/2/28のゲラのまま、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高の6名が載った。つまり、こちらのパネルには戸田城聖が載らなかった

2020/10/9の指示

指示に従おうとしない業者が見落とさないように(?)、変更箇所を強調した上で指示が出された。

主な収監者のリストに関する2020/10/9の指示(開示文書よりキャプチャ)

「中野のまちと刑務所」と「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」の2枚のパネルともに、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖、大塚金之助の10名を載せることが指示された。

2020/10/15のゲラ

2枚のパネルのうち、「中野のまちと刑務所」の方の主な収監者のリストに、指示通り、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖、大塚金之助の10名が載った。

一方、「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」のパネルからは主な収監者のリストが丸ごと削除された

2020/10/19に校了

常設展示用の解説パネル「中野のまちと刑務所」と特別展示用の解説パネル「昭和(終戦まで)~豊多摩刑務所~」の2枚ともに2020/10/15のゲラで校正が完了した。

最終的に、「中野のまちと刑務所」のパネルにだけ主な収監者のリストが載り、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖、大塚金之助の順で10名となった。

戸田城聖の名を掲示したい中野区 vs. 学術的に正しい展示をしたい(株)ムラヤマ?

中野区は、たとえば2020/1/30の指示に見えるように、一貫して戸田城聖の名前を主な収監者のリストに押し込もうとしていた。そして、あわよくば戸田城聖の略歴すらもパネルに入れようとしていた。しかも、これらの指示は出典や根拠となる資料を欠いていた注2

一方、施主の意向通りに設計・整備するはずの(株)ムラヤマは、設計段階の成果物「展示設計図書」(2020/2/28付)で、パネルに戸田城聖の名前を載せることをあたかも拒絶していたように見える。とはいえ、開示文書14に含まれる「仕様書」(下の画像。赤枠は加筆)で英訳ネイティブチェックについて(株)ムラヤマに丸投げなことからして、少なくとも2020/1/30より前は、パネルの細かい表記についても(株)ムラヤマに丸投げで中野区は形式的にチェックするだけのつもりだった可能性が高い。実際、ネイティブチェックを経たはずの英訳においても、たとえば 学童疎開 を Schoolchildren evaluations と訳すという恥ずかしい誤りが残っている。

また、画像(一番下の行③)に「区の指示により、議事録作成、打合せ資料等を併せて作成すること」とある。今回の情報開示は情報一部公開決定ではなく情報公開決定に基づくのに、議事録、打合せ記録簿等が出ていない。したがって、区が議事録、打合せ記録簿等の作成を指示していない、つまり、意思決定過程を隠蔽する不作為があったと分かる。

注2はここに折りたたんであります

注2
創価大学研究員が2022年に学術論文を書く際に、戸田城聖の東京拘置所から豊多摩刑務所への移送があった証拠 (一次資料) を見つけていない。つまり、移送の事実がないことを創価学会自身が証明してしまっている。というのは、塩原将行 (2022)『池田大作が "戸田大学" で学んだこと創価教育, 15, p.35, 注239で、戸田城聖の出獄が豊多摩刑務所であることの出典を書くところに、たんに「戸田は、1945年6月に東京拘置所から豊多摩刑務所に移送されている。」と論点をずらし、出典を欠くからである。

2023/08/23 追記: 議事録、打合せ記録簿等について、念のために情報公開請求をしたところ、虚偽の打合せ記録簿が開示された

平和資料展示室をなぜ廃止しなかったのか

開示文書の全体を観察すると、刑務所に関する展示企画の初出が2020/1/30の指示であることが分かる。このときすでに戸田城聖の名の掲載が公明党関連の略歴付きで提案されていたのだから、刑務所に関する展示自体が戸田城聖の政治的業績を讃えるために企画されたのでは?と勘繰りたくもなる。

もっと言うと、再整備と称して破壊される前の平和の森公園にあった旧平和資料展示室の建物が工事で潰されたあと、そこにあったパネルなどの展示物は、区役所4階の廊下に移りほんの申し訳程度に展示されていた(下の写真)。このうらぶれた薄暗い展示の様子を見た多くの区民が、平和資料の展示はもうすぐ廃止されるのだと思っていたとしても不思議ではなく、まさかそれが、新築の中野区立総合体育館の中に入ってすぐの目立つ場所に移り、ガラス張りの明るい部屋になるとは想像しづらかった。

区役所の廊下にあった「平和資料展示コーナー」。2020/11/6 中野非公式通信 撮影。この展示は撮影した3日後には撤去され、半年後には「ナカノさんコーナー」になった

左: 2020/11/9。右: 2021/5/7。中野非公式通信 撮影

また、パネルを作成するための意思決定過程では、浦野委員(共産)の質疑以降、とくに大塚金之助が削除されたり追加されたりしている。これは、大塚金之助という筋金入りのマルクス主義者を掲載したら戸田城聖公明党だからといって掲載しないのはおかしいとか、戸田城聖より先に大塚金之助があるのは順番がおかしいとかいう、学術的とはいえない屁理屈を、開示文書に現れない部分で誰かが捏ねていたからかもしれない。

戸田城聖豊多摩刑務所に収監されていたことがあるのか

本稿冒頭に掲げた別記事2つ(「中野刑務所正門と『人間革命』」の正編続編)においても、戸田城聖豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)から出獄したはずがないと論じた。

もしも見識の高い業者や専門職にパネル作りを任せたというのなら、収監されていたかどうかに大いに疑義のある戸田城聖の名前なんぞ載らないはずだ。

たとえば、中野区立歴史民俗資料館の常設展示パネルでは、中野刑務所収監者として小林多喜二中野重治亀井勝一郎が挙げられている。また、中野区立中央図書館が2010/10/30 - 11/25に行った企画展示『収監の作家・文化人 - 中野刑務所 1910~1983 -』では、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎中野重治三木清壺井繁治小林多喜二埴谷雄高河上肇藤本敏夫が挙げられている(年表 pp.20-22)。中野区企画部編『中野のまちと刑務所 中野刑務所発祥から水と緑の公園まで』1984 においては、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清が挙げられている(pp.14-21)。これらの展示・書籍で収監者とされた者について下表にまとめた。いずれにも戸田城聖は挙げられていない

歴民・常設展示 中央図書館・企画展示 中野のまちと刑務所
小林多喜二
中野重治
亀井勝一郎
大杉栄
荒畑寒村
三木清
壺井繁治
埴谷雄高
河上肇
藤本敏夫
戸田城聖本人が「拘置所を出所しました。」と記した書簡

実はそれどころか、まぎれもなく戸田城聖本人が「(昭和20年7月)三日の夜拘置所を出所しました。」と記した書簡が残っている。

戸田城聖『若き日の手記・獄中記』第7刷, 左: p.181, 右:p.178.
国会図書館デジタルコレクション(個人送信)より

 妹の主人宛て
 K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身「法華経を読む」という境涯きょうがいを体験し、仏経典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました。
[中略]
 しかし、哲学的に電気化学の原理、電子論に原子論に研究を加えれば、加えるほど、生命の永久を確心しなくてはならないのであります。K雄さん、人の一生は、この世きりではありません。また親子、兄弟、夫婦、主従、子弟の因縁ではありません。その中の子弟の因縁の法華経原理を身をもって読むといいまして、自分の身に体験し体現したのが、私の事件です。深遠な教理と、甚深な信仰と熱烈な東洋愛、燃えた私の心境をつかんでまいりました。
(昭和二十年九月)
* これは一ノ関の妹の主人宛てのものである。下書きのままになっており、投函されたかいなかは不明である。戸田が獄にいるあいだ、一人むすこはこの一ノ関に疎開していた。出獄後すぐ感謝の意をこめて書いたものである。

 

—— 戸田城聖『若き日の手記・獄中記』青娥書房, pp.178-181, 1970. (太字は筆者。改題改訂版の 戸田城聖著, 加清蘭編『信仰への覚悟 人間革命の原形』2021年7月5日 には "の難" の2字がない)

この戸田城聖『若き日の手記・獄中記』という本は、命日を8日繰り上げた1970年3月25日、日蓮正宗大石寺にて親族のみで営まれた十三回忌法要を記念し、親戚・知人らが出版したもの(1970年11月15日第1刷, 1970年12月10日第2刷, 1971年1月10日第3刷, …, 1971年1月28日第7刷, …)である。同書「編纂にあたって」p.188 によると、それまで故人宅に「秘められた」注3、9冊の手帳、数冊のノート、原稿用紙、美濃紙などに、墨字またはペン字で丹念にしたためられてあった、1914年から1953年までの手記や書簡を収録し、その際、当用漢字、新仮名使いに直した以外は、すべてを原文のままとし、読者の便宜のため*で編注を加え、名前は実名を伏せたという。

戸田城聖が出たのが拘置所であることについては、同書に収録された「夫人の父上宛て」1945(昭和20)年3月23日の書簡に加清蘭が付けた編注 p.166 にも「終戦の年(この年の七月に拘置所を出た)」という記述がある(参考: 注10)。なお、同書に収録された手記や書簡のいずれにも「刑務所」という名詞や、巣鴨拘置所(当時の正式名は東京拘置所)から豊多摩刑務所への移送を窺わせる記述は見当たらない。そして、同年5月2日の書簡は、差出人住所として「東京都豊嶋区西巣鴨1-3277」が記されている(「獄中よりの書簡=昭和20年」図版4ページ目下段)ので、東京拘置所から差し出されていることが分かる。

注3はここに折りたたんであります

注3
池田らは、戸田の葬式(1958年4月8日於日蓮正宗常在寺、同年4月20日青山葬儀所)の直後、故人宅にトラックを乗り付け遺品を奪ったようなので、この箇所で加清蘭がいう「秘められた」は、戸田の妻が「隠しおおせた」の意味と思われる。

戸田城聖自筆の書簡に対する池田大作の抗弁

戸田城聖『若き日の手記・獄中記』が出版され増刷されていくのと同じ頃、1971年1月26日、小説『人間革命』(刑務所出獄の条は1965年発表)の作者池田大作は、聖教新聞に『随筆 人間革命』というコラムの連載を開始する。第3回コラムでは、戸田城聖『若き日の手記・獄中記』に収録された手記や書簡について "戦後、発見された、本人自筆の「古文書」" と述べ、つまり古文書という語を用いて謗ることでその真正性・信頼性に疑念を抱かせようと企てている。さらに、第10、11回コラムでは、牧口常三郎(創価学会初代会長)の逮捕地点がピンポイントで判明し小説に反映できたのは、関係者への取材の労を惜しまなかったからだと自画自賛している。

そして、3月1日、第12回コラムでは、戸田城聖が出たのは巣鴨拘置所というのが(この小説を世に出す前は)通説だったということを認めた上で、小説『人間革命』の冒頭部分を執筆するにあたっては通説を覆す必要があると思い、戸田城聖の妻に尋ねてみたら「中野」と答えたので、小説では豊多摩刑務所を出たことにできた、と述べている。

池田大作法悟空名義で聖教新聞に書いた随筆(1971年3月1日、3面)のキャプチャ

通説排し真相を追究
 第一巻の「人間革命」を読み返した。ここで、再び通説から真相への追究の記録をとどめておきたい。それは、戸田城聖の昭和二十年七月三日の出獄のことである。
「人間革命」の執筆直前までは、恩師の出獄は巣鴨(今の東京拘置所)が通説となっていた。この通説はかなり抜きがたいもので、私はS氏注4等に詳しく調べてもらったものである。
 出獄の模様を、先生の奥さまにたずねると、中野、中野という言葉が盛んに出てきた。
「中野です。中野の駅から電車に乗って、戸田と家へ帰ったのです」
 一点の疑う余地もない、明確な答えがはねかえった。
 私たちは迂闊うかつにも、巣鴨出獄を信じきっていたのである。冒頭の書き出しから誤るところを、救われた思いであった。そして、深く息をつきながら —— 通説というものがどんなに恐ろしいものかを思い知り、以後あらゆる瑣末さまつな事柄まで注意を怠るまいと、わが心を戒めた。
 たしかに先生は、巣鴨囹圄れいごの身となり、そこに二年近くおられたことは、書簡その他で明らかだ。ところが出獄の四日前、急に巣鴨未決監みけつかんから、中野の豊多摩刑務所(今の中野刑務所)へ移されていたのである。つまり、先生は巣鴨から中野へ移され、三日にして、保釈出所の晴れの身となったのである。
注5 すると何故なぜ、現在の中野刑務所が当時、豊多摩刑務所の名称を使用していたのであろうか注6。事実、豊多摩刑務所は埼玉の浦和にも現存している注7疑心暗鬼ぎしんあんきの日が続く。そこで、調査、また調査。数日の後、こういうことが判明した。—— 終戦までは、たしかに中野は豊多摩刑務所であった。戦時中、思想犯の増大でここには収容しきれなくなったのであろう。浦和に豊多摩刑務所分所というものが増設されたらしい。そして戦後、豊多摩刑務所は中野刑務所と改称され、浦和の分所はそのまま豊多摩刑務所の名を継いで今日に至っている注8
[以下略]
(四十六年二月二十三日)
—— 池田大作『随筆 人間革命 12』聖教新聞, 2版, 3面, 1971年3月1日. (池田大作『池田会長講演集 第三巻』随筆・人間革命, 聖教新聞社, pp.276-278, 1971 にも収録されている)

要するに、(おそらく以前から裏でこの本の出版を妨害していた)池田大作は、戸田城聖『若き日の手記・獄中記』第1刷を青娥書房から恵投され、そこに「拘置所を出所しました。」と明記された書簡を見つけて焦ったのだ。そして、その語句の改変あるいは当該書簡を収録しないことを求めて青娥書房に圧力をかけた注9ものの、第3刷以降に自作の散文と即興詩を押し込むことしか叶わなかった注10。そこでしかたなく、コラム『随筆 人間革命』の連載を開始し、その中で、小説『人間革命』の冒頭の戸田城聖出獄の場面は戸田城聖の妻から聞き取りをした通りだから間違いないというふうに聞き取りをしてすらいないのにそれを根拠にし、すなわち、小説の虚構を史実と詐ったのだ。

戸田城聖『若き日の手記・獄中記』 池田大作『随筆 人間革命』コラム
1970/3/25 (親族のみの十三回忌法要 (大石寺墓前)。中村蘭が出版を表明)
1970/4/2 (大勢が列席する十三回忌法要(大石寺客殿)。池田も戸田の妻も出席)
  ⦙   (出版妨害を受ける) (聖教新聞への『人間革命』連載が休みがちとなる)
1970/11/15 第1刷
 中村蘭による序「出版にふみきるまでにはさまざまな困難があった
1970/12/10 第2刷
1970/12/14 散文「戸田城聖先生のこと」を執筆
1971/01/10 第3刷
 池田の散文と即興詩が押し込まれる
1971/01/14 第4刷
1971/01/15 第5刷
1971/01/23 第1回分を執筆(1/26掲載) 小説『人間革命』は、「正確の可能性を追って注11、ただ夢中に書いた」「後世の歴史の審判をあおぐ、証拠の書」
1971/01/25 大白蓮華』1971/2月号発売
に書評「三ママから池田による序と詩あり」
 同日 第2回分を執筆(1/29掲載)
 即興詩「無題」(この詩自体の作成日は不詳)
 同日 第3回分を執筆(2/2掲載)
 『若き日の手記・獄中記』を戸田の「古文書」よばわり
1971/01/28 第7刷
1971/02/05 第8刷
1971/02/10 第9刷
1971/02/11 第9回分を執筆(2/17掲載) この日の創価大学竣工式には、池田も戸田の妻も出席
1971/02/17 第10回分を執筆(2/20掲載) 「通説と真実の距離の探究」「ここにこそ真実の歴史は残される」
1971/02/21 第11回分を執筆(2/27掲載) 「事実の背後に横たわる真実を、いかに表現すべきか」
1971/02/23 第12回分を執筆(3/1掲載)
 中野から出獄したことは「通説を覆す必要があった」「戸田の妻から聞き取りをした通り
1971/09/05 第11刷
  ⦙  
1977/05/03 (単行本『随筆 人間革命』として出版。聖教新聞連載時の誤りを訂正)
2002/06/27 (中野区議会で公明党区議が銘板設置要請)
2005/02 改題改訂版の「あとがき」を加清蘭が執筆
2010/05 (池田大作脳梗塞で倒れた説あり。これ以降姿を見せない)
2012 加清蘭 死去 (2/2 池田大作死亡説あり)
2020/11/06 (平和資料展示室パネルに戸田城聖の名が載る)
2021/07/05 第1刷に基づく改題改訂版発行
2023/11/18 (池田大作が11/15に死亡したと創価学会が発表した)

そもそも、池田大作は、戸田城聖本人から直接聞く機会が生前注12にいくらでもあっただろうに、その妻から聞いた注13という説明に説得力があるとでも思ったのだろうか。なにしろ、その説明では、もし通説を覆したいという邪執が先になかったら戸田城聖の妻に聞くことすらなかった、ということにもなるのだから。

注4~13はここに折りたたんであります

注4
S氏は創価学会系出版社東西哲学書院の社長篠原善太郎(池田大作の小説『人間革命』のゴーストライター)。

注5
ここから始まる「すると何故、……今日に至っている。」という段落は、1977年刊行の単行本『随筆 人間革命』、1988~2015年刊行の『池田大作全集』全150巻へ収録される際にそれぞれ次のように修正されている。

 すると何故なぜ、現在の中野刑務所が当時、豊多摩刑務所の名称を使用していたのであろうか。私には疑問が大きかった。事実、豊多摩刑務所は埼玉の浦和にも現存している。疑心暗鬼ぎしんあんきの日が続く。そこで調査、また調査。数日の後、こういうことが判明した。——終戦までは、たしかに中野は豊多摩刑務所であった。戦時中、思想犯の増大でここには収容しきれなくなったのであろう。浦和に豊多摩刑務所分所というものが増設されたらしい。そして戦後、豊多摩刑務所は中野刑務所と改称され、浦和の分所はそのまま豊多摩刑務所の名をいだが、いまは廃止(昭和32年7月に浦和刑務所と名称変更後、44年11月に廃止)されている。
——池田大作『随筆 人間革命』通説排し真相を究明, 聖教新聞社, p.78, 1977.
 すると、現在の中野刑務所はいつまで、豊多摩刑務所の名称を使用していたのであろうか。私には疑問が広がった。事実、豊多摩刑務所は埼玉の浦和にも存在していた。調べてみると、数日の後、こういうことが判明した。——終戦直後までは、たしかに中野は豊多摩刑務所であった。戦時中、思想犯の増大でここには収容しきれなくなったのであろう、浦和に豊多摩刑務所分所というものが増設されている。そして戦後、浦和の分所はそのまま豊多摩刑務所の名をいだが、いまは廃止になった(昭和三十二年に浦和刑務所と名称変更後、四十四年に廃庁)。
 一方、中野の豊多摩刑務所の方は、連合軍に接収後、返還され、三十二年に中野刑務所と改称されている(五十八年に廃庁)。
——池田大作池田大作全集 22 随筆』通説排し真相を究明, 聖教新聞社, pp.63-65, 1994.

池田大作池田大作全集 22 随筆』通説排し真相を究明, 聖教新聞社, pp.64-65, 1994.

注6
この部分は、典型的な藁人形論法である。つまり、「(東京)拘置所を出所しました。」という戸田城聖『若き日の手記・獄中記』の証言に対して、本来の趣旨とは異なる「現在の中野刑務所はいつまで、どんな名称を使用していたのか」に論点を捻じ曲げ、自分達以外の知識の信頼性に疑問をさしはさんでいる。

注7
戦後、GHQに中野の刑務所が接収されたため埼玉の浦和の浦和刑務支所跡に移った「豊多摩刑務所」という名称については1957年7月1日付で浦和刑務所に変更されており(参照: 『法務年鑑 昭和32年』p.221)、仮に池田大作が小説執筆時点(1965年)について「豊多摩刑務所は埼玉の浦和にも現存している。」と主張していたのだとしても明らかに事実に反する。上の注5で挙げた修正は、この致命的な誤りを隠蔽するためになされたと考えられる。

注8
——終戦までは……至っている。」の条を、史実に基づき、次の「 」内に正しく書き直しておく(参照: 社会運動史的に記録する会編『獄中の昭和史』青木書店, 1986, p.383、中野刑務所著『中野刑務所20周年記念』中野刑務所, 1977, p.28、矯正図書館『刑務所拘置所変遷図 東京編』)。

——終戦までは、たしかに中野は豊多摩刑務所であった。戦争末期、刑事施設の再編が必要になったため、東京拘置所豊多摩刑務所内へ、豊多摩刑務所内の東京予防拘禁所が府中刑務所内へ1945年8月1日をもって移転することが決定されている。しかし、豊多摩刑務所も4月13日と5月25日に空襲で被害を受けたので、その移転先に充てるため、1945年7月31日限りで前橋刑務所所轄の浦和刑務支所を廃止することについては決定されている。戦後、1946年3月に中野は U.S. Eighth Army Stockade (米第8軍刑務所)として接収され、1948年8月28日、勅令(監獄官制)を廃し政令(刑務所及び拘置所令)を制定する際に浦和が豊多摩刑務所の名を継いだ。しかし、1956年9月25日に接収解除・返還された中野が1957年7月1日に中野刑務所として発足すると同時に浦和は浦和刑務所と改名されたので、豊多摩刑務所の名は現存しない。」

注9
1960年代末~1970年代は、創価学会が、いわゆる言論出版妨害事件をしきりに起こした時期である。

注10
青娥書房は、恩師戸田城聖の妹テルの長女で詩人の加清蘭(戸籍名:中村蘭)が1970年ごろに創業した出版社なので、その刊行物の内容の細かい点に関して池田大作が口出しすることが難しかったのだろう。

というのは、1971年1月25日発売の創価学会会員・会友向け月刊誌『大白蓮華』の書評欄に次のような記述(下線を付した)があるからだ。

 彷彿としのばせる著者の人間性
 戸田城聖『若き日の手記・獄中記』

 この本は、創価学会第二代会長戸田城聖先生の青春時代の手記、および獄中書簡等をまとめたものである。先生の十三回忌を期して、近親者の手によって昨年末出版された。
 本書に収められた書簡等は、戸田先生が、創価学会会長として、偉大な建設をなし遂げた時代のものではない。
[中略]
 本書は、戸田先生の人柄をしのび、かつ創価学会の苦闘の歴史の一端を知る意味においても、一読をすすめたい。なお、ママからは、池田会長による序と戸田先生の故郷・北海道での青春時代をうたった詩とが寄せられている。(井上光央)
(青娥書房 一八六㌻ 四八〇円)
——大白蓮華聖教新聞社, 1971年2月号, p.104

大白蓮華聖教新聞社, 1971年2月号, p.104

下線部の記述から、『若き日の手記・獄中記』の巻頭のノンブルがついていない部分の構成は、第2刷(1970年12月10日)まで

  • 図版
  • 中村蘭の「序」1970年11月

だったのが、第3刷 (1971年1月10日)で

  • 図版
  • 池田による散文「戸田城聖先生のこと」1970年12月14日付
  • 池田による即興詩「無題」(『随筆 人間革命 2』聖教新聞, 3120号, 1971年1月29日 にも同じ即興詩が掲載されている)
  • 中村蘭の「序」1970年11月

と変わったことが分かる。

池田の手になる部分はちょうど8ページで、これは通常の無線綴じ冊子印刷工程で紙1枚の両面に面付けする(上下に裁断して見開き2ページとなる)分量である。

この8ページ(散文3ページ+即興詩4ページ+白紙1ページ)は、日付が中村蘭の「序」と比べて新しいこともあり、まるで木に竹を継いだような違和感を読者に感じさせてしまっている。この違和感の正体は、おそらく、序文にふさわしいような恩師との思い出がない池田が8(の倍数)ページにする必要だけはあったから、つまり、行数が稼げる詩をでっちあげて埋め草にしたからだろう。それだけでなく、「本書は……手記と、信仰の真髄を開悟された獄中で……囹圄の身でありながら、家族、親類、社員にいたるまで、こまごまと心を配っておられる書簡が記録されている。」という一文があり、そして上の書評中にも「青春時代の手記、および獄中書簡」という類似表現があるように、出獄後の書簡を「」に含めて意図的に列挙から外すなど、あたかも "獄中での悟達" 後の戸田の内心をつづった最重要書簡が本書に収録されていないかのごとくミスリードしていることにもよるだろう。

これらのことから、池田が件の書簡の削除・改変要請をしながらこの8ページを無理やり押し込んだ、と考えるほかない。

そうすると、『若き日の手記・獄中記』に所載の、獄中からの書簡「夫人の父上宛て」の編注 p.166 の言わずもがなのカッコ書「(この年の七月に拘置所を出た)」についても、印刷所の紙型が盗難や損壊の被害を受けて「拘置所を出所しました。」という記述が失われるのをおそれた中村蘭が、記述そのものをあらかじめ二重化しておいたのだとも考えられよう。

なお、第1刷に基づいて改題改訂した 戸田城聖著, 加清蘭編『信仰への覚悟 人間革命の原形』2021年7月5日 には、

  • 池田に由来する8ページの夾雑物
  • 池田が夾雑物の素材にした写真2枚(カバー、本扉。北海道厚田村の昔の風景写真。馬や川が写っている)
  • 池田による編集への介入があったことを示唆する文言出版にふみきるまでにはさまざまな困難があった。」(加清蘭(2012年没)は、この文言を含む「序」と「編纂にあたって」を改稿し「あとがき」2005年2月 (pp.173-175)としている)

がない。そして、破門された池田とは異なり戸田が生涯にわたり日蓮正宗を広め続けたということを誇るように、著者略歴中の著書リスト(p.172)に『日蓮大聖人御書十大部講義』が追加されている。さらに、戸田が自らを "城聖" と名づけたことについても、その願いが「聖なる城に住み、俗習に囚われず、己が歩みをまっとうする」(p.174)であったと初めてあかされている。ここから、『御義口伝』上, 化城喩品七箇の大事, 第一 化城の事 に示された "化城宝処" (=仏が神通力で作った "化城" に限り "宝処" へ至るたんなる方便ではない)という解釈にちなむ名であることが分かる。ちなみに日蓮正宗は、鳩摩羅什訳(406年)『妙法蓮華経』を所依とするだけでなく、1571年ごろの偽撰である『御義口伝』を日蓮(1222-1282)が述べ日興が記した真蹟とみなし重視している。

注11
コラム第1回は、『随筆 人間革命』聖教新聞社, 1977、『池田大作全集 22 随筆』聖教新聞社, 1994 に収録の際、

  • タイトル
    • 旧: 挫折と戦った耕作労働 → 新(1977, 1994): 寒椿
  • 本文
    • 旧: 私の家には、庭がほぼ二十坪しかない。 → 新(1977, 1994): 私の家には、二十坪ほどの庭がある
    • 旧: 正確の可能性 → 新(1977): 可能なかぎり真実 → 新(1994): 正確という一点
    • 旧: 挫折と戦った耕作労働 → 新(1977): 挫折と戦う耕作にも似た頭脳労働 → 新(1994): 挫折と戦った日々

と、それぞれ修正されている。

"耕作労働" という語は、インドから中国に伝わった禅が六祖慧能(638-713)の頃、信者からの布施だけでは大きくなった教団を維持するに足りずやむを得ず生活の手段として耕作労働をするようになり、さらに百丈懐海(749?-814)の頃、「一日不作、一日不食」というほどそれを重視するようになったことを思いおこさせる。だから、農業を蔑むつもりがなかったとしたら、日蓮が禅を批判する程度について、それはそれは激しいものだったという虚構を創価学会が採用していること(いわゆる四箇格言 "念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊" (『御義口伝』上, 序品七箇の大事, 第七 天鼓自然鳴の事 ほか))に照らし不適切であるので、タイトルを含めた修正が必要になったのであろう。

注12
戸田城聖は1958年4月2日没。池田大作の小説『人間革命』は1965年1月1日に聖教新聞で連載開始。

注13
戸田城聖の妻・いく(2000年3月6日没)と長男・喬久(2013年1月4日没)は、創価学会を1991年に破門した日蓮正宗で葬儀が営まれたため、創価学会が退転者・仏敵とみなしている。

おわりに

このように、戸田城聖豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)から出獄したというのは史実ではなく、池田大作が創作したたんなる虚構であって、書き出しで読者を小説におびきよせる方便に過ぎなかったのだ。

(く)