〈記事概要〉
旧中野村名主・堀江家の最後の末裔が中野区に寄贈した東京都中野区中野2丁目の土地に、遺言に基づき中野区は1975年に区立の「堀江老人福祉センター」を開設、1994年に「堀江高齢者福祉センター」と改称したが、2014年に廃止、「堀江敬老館」として民営化した。
2018年に敷地(区有地)を中野駅南口再開発のタネ地とするため、堀江敬老館を中野区保健所裏に一時移転した。2021年に中野3丁目に本移転、施設名から「堀江」の名を消した。名称消滅は堀江の関係者には連絡していない。2022/6/13記(敬称略)
「堀江」消滅の理由。堀江関係者に連絡せず
上の記事概要に記した事情のうち「堀江」の名前消滅の理由と「堀江の名前が消えることについて堀江氏の親族の子孫に連絡したか。した場合は何と言っていたか」について、2022年6月5日(日)に中野区にメールで照会した。
6月6日(月)に中野区地域支えあい推進部から次の通りメールで回答があった。中野区は1週間くらいで問い合わせ回答することが多いが、早いね。
旧堀江敬老館は、堀江高齢者福祉センターが平成26年度末(編注†)をもって廃止された後の施設の名称です。本施設は中野二丁目の再開発に伴い、平成30年4月に中野保健所に隣接した中野二丁目保育室跡施設(区有地)に移転しました。移転後も施設名称は引き続き堀江敬老館としていました。
その後、令和3年8月に現在の中野三丁目23番47号に新たな施設を整備し移転いたしました。移転後の施設の用地は堀江様とは別の方から寄贈された土地であることから、移転後の施設名称に堀江様の名称をつけず所在地の中野三丁目敬老館といたしました。
この件に関しまして、特に堀江様の相続人の方への確認はしておりません。
ご回答は以上です。
† 当時の議会のやり取りや資料(後述)からみて、正しくは平成25(2013)年度末
つまり、
・別の人から寄贈された土地に移転したので、施設名に堀江の名を付けなかった
・堀江の相続人に確認はしていない(堀江の直系相続人は存在しないため「相続人に確認」の意味が不明だが、要は関係者に連絡していないということ)
「歴史殺し」の面目躍如
いや、名称変更にも連絡しないことにも法的その他の問題は何らないだろうし、中野区に老人福祉施設のため寄贈された土地から老人福祉施設を撤去して再開発のタネ地にしたのも、もう中野区の土地‡だから中野区の自由かもしれないが。
‡ 2020年に市街地再開発組合による権利変換が行われたあとの中野区持分は200万分の15,640
冷たくないか?
半世紀前の1970年代のこととはいえ、老人福祉に役立ててほしいと土地を中野区に寄贈した、故人の遺志をどう思っているのだろうか。後述のように、区は施設を民営化した2014年には、故人の遺志を尊重し堀江の名称を残す意向を示していた。
それから中野区の歴史にとって重要であった、もう存在しない旧名主堀江氏の名を施設名から無造作に消したことについて、どういう認識でいるのか。
2013年に出版された『東京23区区立博物館“辛口”批評』(花伝社)の著者、干場辰夫が次のように中野区を「歴史殺し」と呼んだのは慧眼というほかない。
自分の住む地域の個性を再認識し活用するのではなく、どこでもあるとはいえ、この地域はは(ママ)とりわけ大規模に歴史殺しを行ったといえよう。考えてみれば、この「大規模な歴史殺し」こそ、実は中野区という地域の個性であり特徴であるといえるかもしれない。
堀江老人福祉センターの歴史
旧中野村堀江家最後の末裔が遺言で土地を寄贈
旧中野村名主・堀江氏第17代の堀江恭一は子どもがなく、1962年に死去した。妻の堀江
1975年-区立「堀江老人福祉センター」開設
1975年6月1日、中野区は堀江邸跡に、中野区立「堀江老人福祉センター」を開設した(『高齢者福祉センター事例集』中野区福祉部福祉事業課/発行,1998年. など)。「老人福祉センター設立の為」土地を寄付した堀江信夫の遺言通りだ。老人福祉法に基づく老人福祉センターであり、中野区初の高齢者福祉センターだったという。
1994年-「堀江高齢者福祉センター」に改称
1994年11月1日、中野区立「堀江高齢者福祉センター」に改称した(『中野区立堀江老人福祉センター事業概要 平成14年度』中野区立高齢者福祉センター/編集,中野区保健福祉部福祉事業課/発行,2002年)。
土地寄贈→堀江老人福祉センター開設→堀江高齢者福祉センターの頃の事情は、中野区立図書館レファレンスサービスに調査協力してもらった。レファレンス回答がとても充実して素晴らしかったので、この記事の下に項目を立てて紹介する。
2011年-堀江高齢者福祉センター廃止方針
2011年12月、事業見直しを進めていた田中大輔前区長は、堀江高齢者福祉センターを含む4高齢者福祉センターを全て廃止する方針を打ち出した。
2012年-中野区、敷地を再開発地区に組み入れ
2012年、区は堀江高齢者福祉センター敷地(区有地)を、中野駅南口の中野二丁目市街地再開発地区に組み入れた。これにより、堀江邸西半分の跡地を再開発のタネ地として用いる方針を明確にした。
2014年-堀江高齢者福祉センター廃止、民営化し「堀江敬老館」に
2014年3月末に中野区は区立堀江高齢者福祉センターを廃止、同年4月民営化して、2003年から指定管理者だった社会福祉法人奉優会が運営する「堀江敬老館」とした。
区のメールに廃止時期は2014年度末とあるが、当時の議会のやり取りや資料からみて正しくは2013年度末。
2014年-区は堀江の名称残す認識示す
2014年には中野区は、故人の遺志を尊重して移転後も施設名に堀江の名を残す認識を示していた。
奉優会のブログに、2015年当時、堀江邸跡にあった移転前の堀江敬老館の内部の写真が残っている。
2018年-再開発のため堀江敬老館閉鎖、保健所裏に一時移転
2018年4月に中野区は堀江敬老館を、中野二丁目再開発のため、堀江氏が寄付した土地から同じ中野2丁目にある中野区保健所の裏(区有地)に一時移転した。
X (注: 🕊←ここに貼っていたツイートは、保健所裏にあった保育室が堀江敬老館に変わったことについて住民が写真付きで伝えていたが、その後アカウントがなくなったようだ。この注7/16記)
2018年6月に区長は田中から酒井直人に交代した。
2021年-別の人の寄贈地に移転。施設名から「堀江」消す
2021年、堀江敬老館は一時移転先だった保健所裏から、別の人から寄付された中野区中野3丁目の土地に移転した。名前は「中野三丁目敬老館」とし、施設名から堀江の名を消した。
この記事の上の方に貼った中野区のメールによると、堀江の名を消した理由は、施設を他の人から寄贈された土地に移転したためという。
原因と結果と理由がぐるぐるしている。🌀
奉優会ブログによると、開所式には酒井中野区長、自民党の内川中野区議会議長らが出席した。
堀江邸だった敬老館跡地は中野区の権利床に変換される
堀江邸があった堀江敬老館の跡地は、他の中野二丁目再開発地域内の中野区の持分の土地とともに権利床に変換される。権利床で事業運営する民間事業者が募集された。
6月末、西松地所を選定。
言っても仕方ないが、堀江氏は中野区を信用して土地を寄付するのではなく、土地を担保に自らの名を冠した老人福祉の基金を設立すれば良かったのではないかと思う。
追記: 堀江敬老館跡地は公園に
この地域の再開発のため、2016年に桃園公園という名の区立公園が撤去されている。その代わりとして、区は再開発完成の際に堀江敬老館跡地は公園にする計画という。名称は桃園公園のままかもしれないし、新たに検討されるかもしれないということだ。(2016年3月15日中野区議会建設委員会会議録)
堀江氏とその土地屋敷について
旧中野村堀江氏について
『中野区史 上巻』(中野区, 1943)によると、旧武蔵国多摩郡中野村名主・堀江氏は、旧越前国(現在の福井県)からきた先祖が「中野郷5カ村を新たに開発した」ことに始まるという。第何代というのはその先祖よりあとの、堀江源太左衛門重続(文禄2=1593=年没)を初代としてカウントされた。
な‐ぬし【名主】〘名〙
②江戸時代、村方三役の頭かしら。庄屋・肝煎きもいりともいう。村政一般をつかさどる村の長。一村の代表者であると同時に、領主の末端行政を担当し、政令の伝達、年貢・諸役の賦課徴収、戸口の管理、農業技術の指導などに当たった。なのし。
小学館 精選版 日本国語大辞典
名主は、江戸時代の世襲の村長という感じの役職のようだ。
江戸時代が終わると名主ではなくなったが、明治になってからも、第15代堀江卯右衛門(明治38=1905=年没)が中野村村長を務めたり、村役場が一時堀江邸(この時はまだ中野駅南に引越す前)に置かれたりした(中野町教育会『中野町誌 全』中野町, 1933)。
堀江家文書について
中野区で現在、堀江の名を耳にするのは、犬屋敷の平面図など江戸時代の貴重な歴史的資料である「堀江家文書」だろう。中野区立図書館デジタルアーカイブでも一部インターネット公開されている。
堀江の土地屋敷について
旧中野村名主堀江家の第16代が慶応2(1866)年生まれ明治38(1905)年没の堀江悦之介(銀行家)。第17代が明治22(1889)年生まれ昭和37(1962)年没の堀江恭一(医師)。
前述の通り堀江恭一が1962年に73歳で、妻の堀江信夫が1970年に71歳で死去したあと、信夫の遺言により屋敷の西半分は「老人福祉センター設立の為」として中野区に寄付された。なお1918(大正7)年築の堀江邸の東半分は、中野バプテスト教会に売却され現存している。
「堀江家屋敷跡」碑について
堀江高齢者福祉センターがあった場所と中野バプテスト教会の間あたりに、堀江の親族が1971年に建てた石碑がある。
碑文は次の通り。
堀江家屋敷跡 旧
堀江家は太田道灌時代より中
野に住せる近鄕随一の舊家な
り此地もと圍と穪し德川五代
將軍綱𠮷公の犬小屋の在りし
處と云ふ堀江祖先の墓碑あり
し縁により大正七年十六代堀
江悦之助此地に居宅を構ふ十
七代恭一嗣子なく妻信夫は離
世に際し屋敷地を老人福祉セ
ンター設立の爲中野区に寄附
す
昭和四十六年十一月
親戚總代 石坂泰三書
親戚総代の石坂泰三(1886-1975)は、元東京芝浦電気社長、元経団連会長。堀江恭一の継母(恭一の父・悦之助の後妻)堀江松江の弟だ。恭一の血縁のない叔父。
堀江高齢者福祉センター跡地の現状
「堀江家屋敷跡」碑のまわりに桃の苗木が植えられている。堀江高齢者福祉センター/堀江敬老館跡は現在、暫定的に中野区の中野南自転車駐車場になっている。
自転車駐車場から工事用フェンスを隔ててすぐ、住友不動産が中野2丁目再開発のタワマンとオフィスビルを建設中である。
中野駅南口(中野2丁目)再開発の写真は下のまとめ参照。
堀江家土地屋敷の考察と変遷がよくわかる動画
中野駅南の堀江の土地屋敷については、下記記事でわりと詳しく考察した。
動画には記事を書いた後で分かったことも含め、堀江家土地屋敷の状況を時系列にまとめてある。興味ある方はご参照ください。
あと宣伝ですが下の冊子でも考察しているので、お買い求めくださいましたら幸いです。
図書館レファレンス回答
堀江老人福祉センター/高齢者福祉センターについての調査依頼に、中野区立図書館レファレンスサービスが非常に詳細で充実した回答をしてくれたので、この項で紹介する。
図書館レファレンスサービスとは
レファレンス‐サービス
〘名〙 (英reference service)
図書館が行なう利用者サービスの一つで、必要とする文献や参考図書についての問い合わせに応じたり、検索に協力したりするもの。
小学館 精選版 日本国語大辞典
照会と図書館からの詳細な回答
6月5日、中野区立図書館レファレンスサービスに図書館ホームページ上のフォームから問い合わせ、11日にメールでとても詳細な回答がきた。どうもありがとうございました。
教えてもらった資料は、中野区立図書館デジタルアーカイブでインターネット公開されているもののほかは、12日に中野区立中央図書館で確認した。
照会内容と回答について以下引用で示していく。
堀江老人福祉センターとして開設されたことを示す資料
中野二丁目にあった堀江敬老館が堀江高齢者福祉センターという名称だった頃のことについて知りたいとのことでしたが、まず【資料1】と【資料2】で「堀江高齢者福祉センター」は「堀江老人福祉センター」として開設したことが分かりましたので、こちらも含めて調査いたしました。
【資料1】『高齢者福祉センター事例集』中野区福祉部福祉事業課/発行,1998年(H29/A)p.1
「昭和50年、区に初めての高齢者福祉センターとして堀江高齢者福祉センター(当時は「老人福祉センター」)が開設されて以来(後略)」
【資料2】『中野区立堀江老人福祉センター事業概要 平成14年度』中野区立高齢者福祉センター/編集,中野区保健福祉部福祉事業課/発行,2002年(H29/A/02)
1(巻頭)「堀江高齢者福祉センターは、老人福祉法に基づく老人福祉センターであり」
2(5)「開設 昭和50年(1975年)6月1日(中略)その後、平成6年(1994年)11月1日、「中野区立堀江高齢者福祉センター」に改称した。」
思ったより多かった設立時の記事など
実は私も朝日新聞クロスサーチで「堀江高齢者福祉センター」の記事を検索したのだが、イベントの記事1本しかヒットしないのでなぜだろうと思っていた。他の検索でもそんな感じだった。設立時の施設名が「堀江老人福祉センター」だったからだ。
設立時の資料や記事が見つからないと思っていたので、示してもらった資料は予想よりずっと多かった。私の探し方が悪いのはその通りなんだが、名前が変わることで歴史的経緯がたどりにくくなるのも事実だと思う。
- 1972年ごろ堀江氏の寄贈により堀江高齢者福祉センターが設立された時の資料、または区報/地域ニュースの記事など
【資料3】『中野区報 縮刷版 NO.2』中野区企画部広報課/編,1983年(B82/A/2)
・昭和47年7月15日 第376号 p.541「老人福祉センターを建設 -住民参加で-」
【資料4】『中野区報 縮刷版 NO.3』中野区企画部広報課/編,1984年(B82/A/3)
・昭和50年2月15日 第463号 p.219 「ただいま進行中 老人福祉センター」
・昭和50年5月15日 第473号 p.251 「ご利用ください 堀江老人福祉センター」
・昭和50年5月25日 第474号 p.258 「6月3日オープン・7日まで記念行事」
上記4つの記事が、堀江高齢者福祉センターの設立を主題とした記事で、下記3つの記事が、堀江高齢者福祉センターの設立について触れている記事です。
【資料4】
・昭和49年1月1日 第423号 p.100 「ごぞんじですか おとしよりへの施策」
・昭和49年1月25日 第391号 p.9 「老人世話ホームを建設」
・昭和50年7月15日 第479号 p.275 「老人福祉課 公園緑地課など新設 -区の組織改正」
新聞のDBで、記事検索を行いましたところ、以下の記事が見つかりました。
ヨミダス歴史館(明治以降)=読売新聞
・1972年2月17日 朝刊 13ページ「生きた、老婦人の遺志 中野の堀江家 ゆかりの地に老人センター」
・1973年9月6日 朝刊 21ページ「中野に老人福祉センター 老婦人の遺志実る 寄贈の土地に来月着工」
・1973年12月5日 朝刊 21ページ「資材高騰で年度内着工断念 中野の老人福祉センター」
・1975年6月4日 朝刊 17ページ「“堀江さんの遺志”立派に完成 中野に老人福祉センター」
たくさんあった老人/高齢者福祉センターの記事や冊子
記事は設立時以上に、思ったより相当たくさんあったし、施設の冊子も毎年出て、施設ニュースも発行されていた。
冊子などについて、6月13日現在中野区立図書館のOPAC(オンライン蔵書目録)で堀江敬老館をキーワードに蔵書検索しても「検索結果なし 条件に該当する資料がありませんでした」と表示され、堀江高齢者福祉センターでは2件しかヒットしない。なんとかならないだろうか。堀江老人福祉センターを含め、相互にあいまい検索されるようにしてもらえると助かる。
それから『中野区報』と古い時代の『なかの区報』は、一般利用者だけでなく図書館司書ですら有効な検索手段がないという知見が、レファレンス回答により得られた。私たちの仲間が、予算つけてくれたらOCRしてもいいと言っているがどうか。
- 堀江高齢者福祉センター時代の冊子や区報/地域ニュースの記事などがあったら見たい。
区報の記事に関しましては、昭和50年~平成26年までと調査期間が長く、調査する有効な検索手段が見つかりませんでした。
新聞のDBにて、キーワード「堀江老人福祉センター」「堀江高齢者福祉センター」「堀江_福祉センター」で記事検索を行いましたところ、以下の記事が見つかりました。
ほかに、保健婦(当時)として勤めていらした大工原秀子さんの記事等も見つかります。
なお、新聞DBは、中野区立中野東図書館9階オンラインデータベースコーナーのPCで確認することができます。また、中野区立中央図書館地下1階参考室の専用端末では「朝日新聞クロスサーチ」と「日経テレコン」のみ確認することができます。
朝日新聞クロスサーチ =朝日新聞
・1990年11月20日 朝刊 東京 000ページ 「いつまでも青春 おばあさん、ファッションショー挑戦 東京・中野」
・2005年10月12日 朝刊 35ページ 「シニア男性、パック体験 中野で美容講座 /東京都」
日経テレコン =日本経済新聞
・1986年11月15日 夕刊 6ページ 「力まず運動、心も生き生き――楽しく続けて長生きしたい(老いを美しく)」
毎索 =毎日新聞
・1995年10月18日 地方版/東京 「秋の1日を満喫 「堀江大運動会」 中野区/東京」
ヨミダス歴史館(明治以降)
・1988年1月12日 朝刊 22ページ 「できたぞボクらのジャンボカルタ「百人一首でボケを防ぐ?」/東京・新宿」
・1990年11月22日 朝刊 24ページ 「東京・中野のお年寄りがファッションショー 華麗に若返り」
・1995年9月8日 東京朝刊 34ページ 「東京・中野で障害者とお年寄りが交流の集い」
・1999年6月23日 東京朝刊 26ページ 「お年寄りが和紙で人形作り/東京・中野」
【資料1】と【資料2】と、以下の資料が福祉センター時代の冊子です。
【資料5】『堀江高齢者福祉センター ご案内』社会福祉法人奉優会,2008年(H29/A)
【資料6】『中野区立堀江老人福祉センター施設概要』中野区立堀江老人福祉センター/編,2016年(H29/A)
【資料7】『堀江ニュース 1978年~1991年』中野区立堀江老人福祉センター/編,1991年(H29/A/78)※欠号あり
【資料8】『堀江ニュース 1998年~2009年』中野区立堀江老人福祉センター/編,1998年(H29/A/98)
※欠号あり、なお1992~97年は所蔵していません。
【資料9】『中野区立堀江老人福祉センター事業実績 昭和54年度』中野区立堀江老人福祉センター/編,1979年(H29/A/79)
【資料10】『中野区立堀江老人福祉センター事業概要』中野区立堀江老人福祉センター/編(H29/A)
※昭和51~54、61、62、平成2、5年度を所蔵しています。
最後に、新聞のDBの内容は、縮刷版を中野区立中央図書館で所蔵しております。また、紹介した資料の中で貸出が可能な資料は、【資料1】【資料2】【資料5】の3冊となっております。他の資料は、館内のみの閲覧となりますので、ご了承下さい。
回答は以上です。
今後とも中野区立図書館のご利用をお待ちしております。
資料の抜粋-施設の概要
レファレンスサービスで教えてくれた数多くの資料のうち、堀江老人福祉センター/堀江高齢者福祉センターの概要と、興味をひかれた記事について、ごく一部だが紹介する。
施設概要
最初の『中野区立堀江老人福祉センター事業概要』昭和51=1976=年度版によると、堀江老人福祉センターの概要は次の通りだった。
所在地 中野区中野2丁目23番8号
敷地 738.855㎡
建物 856.99㎡ (鉄筋コンクリート造、地下1階、地上2階)
開館 昭和50年6月1日
定員 約220名
「設置の趣旨と経緯」として〈敷地は故堀江信夫さんの遺言により中野区に寄贈され施設の名称は、故人の意志を尊重し「中野区立堀江老人福祉センター」としました〉との記載がある。
なぜか微妙に縮んでいく土地
1976年度版で738.855㎡だった敷地は、平成14=2002=年度版事業概要になると712.14㎡となり、中野区の2018年の区議会での説明では公簿上684.32㎡ と、数字が微妙にだんだん少なくなっている。そして現在、中野南自転車駐車場(地番: 中野2丁目98番13)の地積は595.77㎡ だ。
資料の抜粋-寄贈の理由「先祖の墓の土地」
1973/9/6読売新聞都民版は、土地が老人のために寄付された理由の説明で、堀江信夫の生前の口癖が「最近の子どもたちは過保護といわれるほど恵まれているが、老人はお気の毒」だったとしている。
1972/2/17と1973/9/6読売新聞都民版は「ここはご先祖の墓のあったゆかりの土地」と堀江信夫の遺言を引用した。堀江家墓所は堀江が中野駅南に引越す前からその地にあったが、堀江夫妻の存命中に宝仙寺に改葬された。『中野区史 上巻』(上掲)によると、堀江家初代にカウントされている堀江重続が1593年に葬られた場所がすでにその墓所だったとみられている。ということは改葬前は400年分の一族の墓があったことになる。
また、堀江家屋敷跡碑の親戚総代は堀江恭一の継母の弟の石坂泰三で、遠縁だったが、1972/2/17読売新聞都民版に中野区に寄付を申し出たのは「故恭一さんの実弟(編注*)、日本ステンレス副社長堀江重賢さんら親族」とあるので、近い親類もこの時点でいたことがわかる。
* 恭一、重賢の母はそれぞれ父悦之助先妻栄子、後妻松江だから、異母弟の誤り
資料の抜粋-当事者の声を取り入れた設計、運営
区報によると、中野区は堀江老人福祉センターの設計から運営まで、当事者の声を取り入れて行い、そのようなやり方は初めての試みだったという。
「"ともにつくる人間のまち中野" は、区政の合言葉です。区では、この考えに基づく、初の試みとして老人福祉センターをお年寄りの方と一緒につくることにしました。すでに、設計の原案は、四十九の全老人クラブに示し、検討をお願いしています。区では、そこから出てくる意見、要望は最大限計画にとり入れる考えです。また、建設計画だけでなく完成後のセンターの運営などについても、積極的に住民参加をとり入れています」(1972/7/15中野区報)。
興味深いことにその20数年後、老人福祉センターから高齢者福祉センターに名称変更するにも、先立って区民の声らしきものが紹介されている。
「老人会館の老人という名称を変え、地域にふさわしい名称に変更できないか」(東中野二丁目・Aさん)(1994/6/12中野区報)。この投書を掲載したあと、1994/10/23区報で、老人福祉センターは「11月1日から高齢者福祉センターに名称が変わります」と告知した。
中野区に寄付された他の土地について
本町図書館
中野区立本町図書館(中野区本町2)は、元法相花村四郎の寄贈した土地に1968年開館、地域住民に愛されたが、中野区は2021年10月に廃止、区は跡地に民間施設を検討するとしている。堀江高齢者福祉センターと同様の運命をたどった。
「本町図書館が故・花村四郎先生が土地を寄贈した図書館」だということをリンク先ブログの脚注*1にある『第9期図書館運営協議会第6回要録』で知りました。おい、ここもか。寄贈されたものをダメにして売っぱらう中野区よ。 https://t.co/LnocTLc3IB pic.twitter.com/JyfRVNDBXk
— くろねこ (@orangkucing) July 8, 2020
(寄付ではないが)東中野小学校
これは寄付ではないが、区立東中野小学校(中野区東中野5)は、下の地元住民のブログによると、地元の子どもたちのため九鬼男爵に頼み込んで安く譲ってもらった土地に建っていたという。2009年に廃校、中野区は当初跡地は売らないと言っていたが、結局不動産業者に売却されマンションになった。
私が遅ればせながら平和の森公園より先に「中野区政やばい」と思ったのは、この東中野小学校の件だった。
また、近藤正二『二十世紀に生きた記録 —私と中野区—』2011年, ぎょうせい. に、昭和11(1936)年ごろの話に関連して「明治以来、小学校建設は市町村が地元に寄付を仰いできた」との記載がある。地元の人たちの浄財を託された自治体が、その資産を好き勝手に扱っていいものではない。
れきみん(歴史殺しは返上されたか)
もちろん潰された施設ばかりではない。山崎氏寄贈の土地に建つ山崎記念中野区立歴史民俗資料館(中野区江古田4、1989年開館)は、寄付者の名を冠し存続している。
なおこのブログの上の方で挙げた「歴史殺し」という表現は、実はこのれきみんについての評である。
杉山公園
資産家が子どもがいないので自邸の土地を寄付した例は、堀江のほかに中野区立杉山公園(中野区本町6、寄付当時は中野町)がある。杉山公園は、子を亡くした寄付者、杉山氏の名を冠し存続している。
1934(昭和9)年開園と、中野区最古の公園である杉山公園の由来は、下記鍋横区民活動センター運営委員会のブログ参照。
「精霊は永く住民の幸福を祈らむ」
杉山公園の石碑に、次のように記されている。
杉山一家嗣なく血統絶ゆるも
代々の精霊は永くこゝに
鎮りて中野町の繁栄と
其の住民の幸福を
祈らむ
私は2019年に初めてこの碑文を読んで、昔の人の心情に胸が詰まる思いがした。
しずま・る しづまる【鎮・静】〘自ラ五(四)〙
③神が、ある場所を自分の地としてそこにとどまる。鎮座する。
小学館 精選版 日本国語大辞典
故人の精霊が故地にとどまるかどうか、私は知らない。
しかし後世の住民の幸福を祈って私財を寄付した故人の遺志を尊重する行政であるのならば、再開発よりも住民の幸福を優先してくれそうな気はする。