続 中野刑務所正門と『人間革命』

創価学会が正史として扱う聖なる書物『人間革命』(池田大作著)。

本稿では、いにしえの中野区議会会議録を紐解き、小説『人間革命』が中野区政にどのような影響を与えたかを調べる。そして最近、創価学会員の積年の宿願の一つが中野区立総合体育館の平和資料展示室に設置されたパネルで叶ったことを述べる。2021/2/11記

なお、小説『人間革命』に描かれた中野刑務所正門の様子と、その各バージョン(新聞小説、単行本、アニメ、劇画など)における異同については、別記事⬇️「中野刑務所正門と『人間革命』」を参照のこと。

nakanocitizens.hatenablog.jp

愛読書が『人間革命』

2002年第2回定例会一般質問

小説『人間革命』は、中野刑務所(当時は豊多摩刑務所)の正門から創価学会第2代会長戸田城聖が出獄する情景で始まる。

今から約20年前に、『人間革命』の冒頭の一節を中野区議会一般質問で引用した区議会議員がいた。 (なお、以下の引用中で紫色で示した事項に関しては、次節以降で説明する。)

岡本いさお(公明):
 中野区はことし3月、平和を考える「よすが」となる区内の史跡を集めた「なかの平和マップ¹」をつくりました。その中の一つに中野刑務所が紹介されています。かつては豊多摩刑務所と呼ばれた中野刑務所は、1945年に悪名高い治安維持法が廃止されるまで、政治犯や思想犯など、戦争反対を訴え続けた人々を多く収容していました。戦後、この刑務所は、粘り強い住民運動によって昭和58年に廃庁、跡地は平和の森公園となり、区民が平和の実現を願うシンボル的なエリアとなっています。また、区が平成3年4月に制作したビデオ「光の中に消えたレリーフ²でも、中野刑務所は平和の象徴としてとどめられています。
 私が中野刑務所の前身である旧豊多摩刑務所の名を知ったのは、ある小説からです。「戦争ほど、悲惨なものはない。戦争ほど、残酷なものはない。だが、その戦争はまだ、続いていた」。第1巻の冒頭は、その書き出しの一文とともに、治安維持法不敬罪で捕らえられた宗教者・平和主義者、そして教育者であった主人公が、昭和20年7月3日、豊多摩刑務所から出獄する場面が描かれています。そして、中野駅に向かう道々、だれに言うこともなく、戦争への憤りを激しい口調で「戦争をやって、誰が喜ぶか、平和と幸福への願いは、人々の共通の念願であるはずだ」云々とつぶやきます。この叫びは戦争反対へのみずからの誓いとなって、私の心の中に深く焼きついて離れません。
 私のこの愛読書の冒頭に登場する豊多摩刑務所、後の中野刑務所は、私にとって戦争の悲惨さ、平和の尊さを考える原点でもあり、私は中野こそ平和を世界に発信していく使命を持つ地であるとの強い思いを持ち続けてきました。その意味から、私もこれまで中野の平和事業についてたびたび提案をしてまいりました。
(中略)
 次に、平和の森を蛍が飛び交う「蛍の里」にする公園の試みです。
 「平和の万葉集」は、心に平和の思いを築く、いわゆる精神の部分。そして、その思いを平和の象徴として形の上で残すことも大事であると思っています。毎年、終戦記念日の前後にテレビ放映されるアニメ映画「火垂るの墓」、そして、特攻隊が蛍になって帰ってくるエピソードから題名をとった、高倉健主演の映画「ホタル」を見て、蛍は平和の象徴だと強く感じるようになりました。平和の森公園は、歴史的にも平和を訴える使命を持っている場所であると思います。その意味から、平和の森公園に蛍を放し、蛍が飛び交う平和の里として、水辺の公園にしてはいかがでしょうか、区長の御見解を伺います。
 また、豊多摩刑務所治安維持法予防拘禁としてとられた、戦争を反対し、平和を願望した人たちを思い、私どもが忘れないように末永く顕彰し、また継承していくことは大事であると思います。そこで、刑務所の表門を保存・管理している法務省にも働きかけ、これらの方々の名前を刻んだ銘板をつくり、平和の森のしかるべきところに設置³してはいかがでしょうか。御見解を伺ってこの項の質問を終わります。

言うまでもなく、その第1巻冒頭の一文が「戦争ほど、悲惨なものはない。戦争ほど、残酷なものはない。だが、その戦争はまだ、続いていた」であるような小説は『人間革命』に他ならない。そして、治安維持法不敬罪で捕らえられた宗教者・平和主義者そして教育者であり、昭和20年7月3日豊多摩刑務所の表門から出獄したその小説の主人公は、戸田城聖である。

岡本いさお区議の質問の最後の部分、戸田城聖の名前を刻んだ銘板設置に関する区側の回答は次のようなゼロ回答であった。

渡辺征夫(政策経営部長):
 中野刑務所、旧豊多摩刑務所に投獄された、そういったような歴史、そこの方々、銘板を平和公園の中に設置したらどうかということでございます。中野刑務所につきましては、その歴史を伝えていく必要があると考えまして、廃止までの経過を記した冊子を発行しております。御提案の銘板の設置につきましては、私どもが現在承知しているところでございますと、収容された人々の名簿も失われているというようなことでございますので、現状ではなかなか難しいと考えております。

銘板を設置しないで済ますための、このときの中野区側の理由は、収容された人々の名簿が失われているからということだった。実際、たとえば、戸田城聖が収容されていたかどうかすら、創価学会以外の資料ではよく分からないということをすでに別記事で述べた。

1 なかの平和マップ

岡本いさお区議(公明)の質問に出てきた『なかの平和マップ』は、屏風状に折り畳む形式で両面印刷の小冊子(全12ページ)である。

『なかの平和マップ』で平和の森公園と旧中野刑務所正門に関係する2ページが次の画像である。

平和資料展示室、平和記念碑、中野刑務所表門
(中野区立中央図書館所蔵。中野区企画課『なかの平和マップ』1982より)

2 ビデオ「光のなかに消えたレリーフ

「光のなかに消えたレリーフ」は中野区立中央図書館が所蔵している VHS ビデオを借りることができる。

旧中野刑務所正門の建築家後藤慶二の子息後藤一雄氏が刑務所の塀の外でインタビューを受けるシーンに始まり、十字舎房、教誨堂などの内部、外部の美しい映像がある。また、プロレタリア作家佐田稲子が語る興味深いエピソードや解体のため鉄球を叩きつけられ崩れ落ちる時計塔など、まさに必見のビデオと言える。

廃庁時に解体を免れた旧中野刑務所正門
十字舎房
時計塔が鉄球を叩きつけられ崩れ落ちる瞬間

3 宿願の戸田城聖の銘板設置が叶う

2020/9/20、長い間工事中だった中野区立総合体育館が、平和の森公園のかつての「未開園区域」に完成し、竣工式が開かれた。

その新しい中野区立総合体育館の中に「平和資料展示室」がある。平和の森公園が再整備工事のせいで激変する以前の旧平和資料展示室は、現在のじゃぶじゃぶ池の北東の管理事務所内にあった(上述の『なかの平和マップ』にも記載がある)。

旧平和資料展示室の閉室から新平和資料展示室の開室までの経緯に関しては、min.t⬇️にまとめた。 min.togetter.com 新規開室日の様子は別記事⬇️を参照。 nakanocitizens.hatenablog.jp

とりわけ、2020/11/6の新規開室を喜んでいたのはこの人だと思う。

開室を待ち望み、朝いちで訪れた甲田ゆり子区議(公明)の上の動画をよく見よう。カメラがズームインしていく先にあるのは、設置されたパネル(下の写真)の「戸田城聖」の文字の箇所である。
平和資料展示室に設置されたパネル。写真は移設が決まった旧中野刑務所正門

パネルには、中野刑務所の「主な収監者」として、大杉栄荒畑寒村亀井勝一郎小林多喜二中野重治埴谷雄高河上肇三木清戸田城聖、大塚金之助という10名の名前だけが挙げられている。

つまり、岡本いさお区議(公明)が区議会で要望した「豊多摩刑務所(中野刑務所)に収監された、平和を願望した人たちを思い、私どもが忘れないように末永く顕彰し、また継承していくために、刑務所の表門を保存・管理しつつ、これらの方々の名前を刻んだ銘板をつくり、平和の森のしかるべきところに設置」という約20年越しの宿願は、旧中野刑務所正門の写真とともに10名の「主な収監者」の名前を記したこのパネルをもって、ついに叶ったのである。

(蛇足だが、このパネルに掲げられた10名は、Wikipedia 豊多摩刑務所「著名な収監者」(2020/2/8版)に挙げられた10名と偶然にも一致している。)

最近の中野区議会では

2020年11月9日区民委員会

最近、無所属の区議会議員がさりげなく『人間革命』を引用していた。

石坂わたる(無所属):
 ありがとうございます。こちらの場所というのが、やはり歴史的な価値、特に町並みは変わりつつも、この門の立つ場所について、ひんやりとした風が武蔵野の林から遠くそよぐような雰囲気の中に立っていたものであるという雰囲気を残すこと、また、建築としてもそうですし、日本の文学史、司法の歴史としての活用も考えていくべきである場所であると考えています。
 この件について御報告いただいた中で取り壊しという話が出ないことはほっとしております。しかし、当時の状況をいかに残すのか、現地が望ましいのは望ましいと考え、その趣旨から、またその当時の担当者の当該委員会での説明を踏まえて、「平和の森小学校新校舎の早期建設・完成について」という陳情、これの第4項に関して、旧中野刑務所正門の解体もしくは学校敷地外へ移築することとあった部分に関しまして、私は賛成せず、また議会の総意としてもこの項目は不採択となりました。その後、区長の記者会見もあり、これは現地保存でいくんだろうなと思っていたところではありました。

「ひんやりとした風が武蔵野の林から遠くそよぐような」の部分は、明らかに『人間革命』冒頭の、

 七月三日、午後七時。
豊多摩刑務所とよたまけいむしょ(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側に、さっきから、数人の人影が立ちつくしていて、人影のたえた構内を、じっと見つめていた。かれこれ二時間にもなる。あたりは閑散かんさんとしていた。
 高いコンクリートへいが、ながながとめぐらされ、昼間ひるま熱気ねっきが、たちこめていた。一日の暑熱しょねつを、たっぷりったへい余熱よねつは、夕方になっても、なかなかめそうもなかった。だが、梅雨つゆあけ近い、むし暑い一日が、やっと終わって、いまひんやりとした風が武蔵野むさしのの林から、遠くそよぎはじめてきた
—— 聖教新聞「人間革命(1)」1965年1月1日, (3)

を踏まえている。

おわりに

戸田城聖が出獄した際にくぐったと言われる旧中野刑務所正門は、曳家による移設が中野区の2021/1/18庁議で決定した。

この、ひんやりとした風が武蔵野の林から遠くそよぐような記憶の中の大切な場所が永遠に失われること、つまり、場所そのものに文学的歴史的価値がある聖地が移設されてしまうことについて、創価学会員はいったいどう受け止めて納得するのだろうか。

つづきの記事

(く)