中野刑務所正門と『人間革命』

創価学会正史として扱う聖なる書物『人間革命』(池田大作著)。その冒頭シーンの背景は中野刑務所正門(当時は豊多摩刑務所表門)である。 本稿では、『人間革命』の初版や最新版、アニメ版など6つのバージョンを入手して調べ、中野刑務所正門がどのように描写されているのかを比較する。2020/9/1記

豊多摩刑務所は、U.S. Eighth Army Stockade (米第8軍刑務所)、中野刑務所と名前を変えたあと1983年に廃庁となり、現在残っている往時の建物は正門(表門)のみである(本稿の末尾に最近撮影の旧中野刑務所正門の写真がある)。それ以外の建物は壊され、東京都下水道局中野水再生センターや中野区立平和の森公園となっている。

小説『人間革命』とは

『人間革命』は、創価学会 第2代会長戸田城聖(1900-1958)が成し遂げた信者数拡大(いわゆる"広宣流布")の様子を描いた、第3代会長池田大作の手になる長編小説である。

この『人間革命』という小説は、

 戦争ほど、残酷ざんこくなものはない。
 戦争ほど、悲惨ひさんなものはない。
 だが、その戦争は、まだつづいていた。

—— 第1章 「黎明」

という有名な一節(公明党が「平和の党」であるという根拠としても用いられている)で始まる。そして物語は、終戦間際の1945年7月3日午後7時、治安維持法違反及び不敬罪で未決勾留された被告人の戸田城聖が、豊多摩刑務所(中野刑務所)の門から出てくる印象的な場面となる。

小説『人間革命』の各バージョンにおいて、豊多摩刑務所(中野刑務所)の門や中野の街の描写は微妙に異なる。本稿では、6つのバージョンでその違いを観察していき、そして最後に、戸田城聖が出獄したのは本当に豊多摩刑務所なのか?という疑問を提出する。

新聞小説 聖教新聞連載第1回 1965年1月1日

 七月三日、午後七時。
豊多摩刑務所とよたまけいむしょ(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側に、さっきから、数人の人影が立ちつくしていて、人影のたえた構内を、じっと見つめていた。かれこれ二時間にもなる。あたりは閑散かんさんとしていた。
 高いコンクリートへいが、ながながとめぐらされ、昼間ひるま熱気ねっきが、たちこめていた。一日の暑熱しょねつを、たっぷりったへい余熱よねつは、夕方になっても、なかなかめそうもなかった。だが、梅雨つゆあけ近い、むし暑い一日が、やっと終わって、いまひんやりとした風が武蔵野むさしのの林から、遠くそよぎはじめてきた。
 その時、鉄門の右のすみにある、小さな鉄のとびらから、ひとりの、やせほそった中年の男が、いそぎ足で出てきた。

文中の "やせほそった中年の男" が、小説『人間革命』の主人公の戸田城聖である。

聖教新聞「人間革命(1)」1965年1月1日, (3)

小説『人間革命』は、聖教新聞(当時は週3回発行)の連載小説として始まった。その記念すべき第1章「黎明」第1回の文とその挿絵(三芳悌吉画)に豊多摩刑務所がある(上の画像)。作者名に "法悟空" とみえるが、これは池田大作ペンネームである。

挿絵は、ウィキペディアにある下の画像(日本政府「写真公報(1960年3月15日号)」)のアングルに近い。

豊多摩刑務所 - Wikipedia | 日本政府「写真公報(1960年3月15日号)」

挿絵とウィキペディアの画像で画面左側3分の1を占める、半円形アーチ窓のレンガ造の建物が中野刑務所正門で、建物の東側面が見えていることになる(半円形アーチ窓は守衛室の受付窓)。特徴のあるマンサード屋根は、挿絵では、当時あったスカート部分が強調されてしまっていて、まるで切妻屋根のようにも見える。そして挿絵では、鉄門(通用門)の外側に、戸田城聖と、出獄を出迎えた人影3名(妻の幾枝、実姉、実姉の子(一雄))と、そして、彼らの後ろをよく見ると門の近くに守衛らしき人影が描かれている。また、ウィキペディアの画像には、鉄門の中に刑務所事務棟とそこに聳え立つ時計塔が写っている。

レンガ造の中野刑務所正門の建物中央には鉄の大扉があるが、そこではなく、脇にある鉄門を刑務所の人や車の出入りに用いていたということだろうか(追記2で論じる)。戸田城聖が出獄してきたのは、鉄門の(所内から見て右隅。挿絵は所外から見ているので左隅。画像で守衛が立っているところ)にある人間用出入口の小扉だと思われる。

ちなみに、彼が出獄する際に通過した、この "小さな鉄のとびら" (縦約225センチ×横約90センチ)は、現在、創価学会中野南文化会館で大切に保管されており、例えば、このブログに小扉の現物写真がある。また、「平和の門を考える会」のフェイスブックにもこの小扉を特別に見せて貰ったという記事があり、三芳悌吉がカラーで描いた挿絵と小扉の現物の写真がある。

「平和の門を考える会」のフェイスブック 2020/9/8

「平和の門を考える会」のフェイスブックのキャプチャ

なお、豊多摩刑務所に用がある場合には、表門 (正門) で守衛から門鑑 (一時入構許可証) を貰い、ロータリーのある広場を横切って、刑務所事務所棟 (時計塔のある建物) の受付に行く必要があった。このことから、出獄の出迎えについては、表門の脇にある鉄門の前に突っ立ってではなく、広場に入ってベンチに座って待てたのではないかとおもわれる (参考: 『三木清全集 第8巻 月報』p.6, 1967年5月。『三・一五,四・一六公判闘争のために』戦旗社, p.36, 1931-1932年)。

単行本 第1巻 1965年10月12日

池田大作 (1965)『人間革命』第1巻, 聖教新聞社, p.4

連載中の新聞小説は、順次、単行本として出版された。

とくに、単行本の第1巻には「はじめに」の章が付加され、そこに

ともあれ、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能とするのだ。—— これが、この物語の主題である

という、この本を創価学会聖典とならしめている記述(ネタばらし?解題?)がある。

単行本の本文は、新聞小説版をさらに推敲したものとなっており、段落分けや漢字/仮名の書き分け、てにをはなどの細かい点が異なっている。挿絵に関しては、新聞小説の全ての回を収録しているわけではないが、中野刑務所正門が描かれた連載第1回の挿絵は採用されている(上の画像)。

 七月三日、午後七時 ——
豊多摩刑務所とよたまけいむしょ(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側には、さっきから、数人の人影が立ちつくして、人影の絶えた構内を、じっと見つめていた。かれこれ二時間にもなる。
 あたりは閑散かんさんとしていた。
 高いコンクリートへいが、ながながとめぐらされ、昼間ひるま熱気ねっきが、たちこめていた。一日の暑熱しょねつを、たっぷりったへい余熱よねつは、夕方になっても、なかなかめそうもない。だが、梅雨つゆあけ近い、むし暑い一日が、やっと終わって、今、ひんやりとした風が武蔵野むさしのの林から、遠くそよぎはじめていた。
 その時、鉄門の右のすみにある、小さな鉄のとびらから、一人ひとりの、やせほそった中年の男が、いそぎ足で出てきた。

劇画 聖教新聞連載第1回 1988年7月3日

原作:池田大作, 劇画:石井いさみ, 脚本:渡あきら『劇画「人間革命」』聖教新聞, 5版 (7), 1988年7月3日

中野刑務所正門の絵は、新聞小説版(三芳悌吉画)の挿絵の右奥に、当時存在した時計塔を配したものとなっている(上の画像)。半円形アーチ窓が本物の正門に忠実であるのに、マンサード屋根がデフォルメされているという点は、三芳悌吉の挿絵をそのまま引き写したからであろう。

小説を劇画にするにあたり、小説の文章として描写されていない部分が想像で補われていて、現地を知るものにとっては違和感のある絵が散見される(下のアニメ版の画像参照)。例えば、小説で「出獄した戸田城聖が中野刑務所の高い塀に沿って歩き、新井町仲通りに突き当たって右折し、早稲田通りへ出て、中野駅へ向かう」という部分は、劇画においては、戸田城聖の右手側ではなく左手側に高い塀が聳えているべきであったし、突き当たって右折して入った通りも新井町仲通りではなく刑務所通り(現在の平和公園通り)であるべきであったし、早稲田通り付近から遠望できた中野駅駅舎も当時の南口駅舎ではなく北口駅舎であるべきであった。

この想像の中の中野の街は、アニメ版にもそのまま引き継がれる。

アニメ VHSビデオ第1巻 1995年5月

VHSビデオでアニメ版が作られた。その後、CDやDVDなどには、なっていない。

絵やネームは、劇画版を踏襲し、ほぼそのまま、アニメ化されている。

原作:池田大作, 制作:シナノ企画東映アニメーション (1995)『アニメ人間革命』第1巻「黎明」
奥に時計塔が見える。
原作:池田大作, 制作:シナノ企画東映アニメーション (1995)『アニメ人間革命』第1巻「黎明」
奥に時計塔がないことから、この場面は新聞小説三芳悌吉の挿絵)の描写を引き継いでいると思われる。しかし、新聞小説では、出獄する戸田城聖を迎えにきたのは3名であったが、この絵では妻の幾枝ただ1人である。
原作:池田大作, 制作:シナノ企画東映アニメーション (1995)『アニメ人間革命』第1巻「黎明」
出獄した戸田城聖と妻の幾枝から見て右手側に高い塀が聳えている。(注意。現実なら、左手側のはず)
原作:池田大作, 制作:シナノ企画東映アニメーション (1995)『アニメ人間革命』第1巻「黎明」
刑務所通り(平和公園通り)から見下ろす、焼け野原になった中野の街。(注意。現実なら、平和公園通りは高台ではない。)

言論出版妨害事件を起こしたことによる修正

(この節の内容に関しては、たとえば、ウィキペディアあるいは日本共産党による説明を参照せよ。)

1970年に言論出版妨害事件を起こした創価学会は、池田大作が謝罪し、"国立戒壇"、"王仏冥合"、"仏法民主主義"を綱領から削除した。いわゆる"折伏大行進"(暴力的な信者獲得活動)もこれ以上続けられなくなった。そして、このころから日蓮正宗との関係が悪化し、1991年11月28日、ついに日蓮正宗創価学会を破門した。この結果、両者は無関係の宗教団体となった。以降、創価学会は、信者の仏壇に安置する本尊として日蓮正宗法主の直筆書写のものが入手できなくなった。創価学会は、入手できなくなった本尊の代わりに、日寛上人(日蓮正宗第26世の法主 1718-1726)書写のものの模写を本尊として供給するようになった。

このような経緯から、小説『人間革命』を池田大作全集(全150巻。1988-2015)に収録するにあたり、NGワード国立戒壇王仏冥合など)削除や本尊の表現変更(歴代日蓮正宗法主の直筆書写を意味する「常住御本尊」を「御本尊」とあいまいに書き直すなど)がなされた。そして、それ以外の既存の出版物に関しても同様の処置がとられつつある。

文庫本 全集収録版(第2版) 第1巻 2012年12月1日

第2版では、上述のように、NGワード削除や本尊の表現変更がなされている。中野刑務所を描写している部分にはとくにNGワードが含まれていないが、それでも次のように変更されている。

 七月三日、午後七時 ——
豊多摩とよたま刑務所(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側には、さっきから数人の人影が立ちつくしていて、人影の絶えた構内を、じっとみつめていた。かれこれ二時間にもなる。辺りは閑散としていた。周囲には、高いコンクリートの塀が、長々と巡らされていた。
 蒸し蒸しした一日が終わって、今、ひんやりとした風が、武蔵野の林から遠くそよぎ始めてきた。
 その時、鉄門の右の隅にある小さな鉄の扉から、一人の、やせ細った中年の男が、いそぎ足で出てきた。

"塀の余熱" とか "梅雨あけ近い" というくどい描写が削除されている。簡単な漢字に付いていたルビがなくなり、ひらがなに開かれていた単語(あたり、ながながと、めぐらされなど)も漢字に直され、漢字の読める読者には読みやすくなったと思われる。

また、新聞小説版で "長いへいが切れて、右に曲がると、新井町あらいちょう仲通なかどおりである" と記された部分は、1986年3月に当該道路(刑務所通り)の愛称が「平和公園通り」となったこともあり、"長い塀が切れて、右に曲がった" のように道路名無しで短く修正されている。ちなみに、「新井町仲通り」という名称の道路(あるいは、商店会の名称として「平和公園仲通り商店会」)は近くに現在も存在している。パン屋"La Clochette"が立つ四つ角平和公園通りと斜めに交差する、西北西から東南東に走る細い道が本物の新井町仲通りであるが、出獄後の戸田城聖が "長い塀が切れて、右に曲がると" 歩けたとは考えにくい。

平和公園仲通り商店会」と表示された街灯柱。2021/12/6撮影
平和公園仲通り商店会のエリアに撮影地点(35°42'46.0"N 139°39'47.6"E)が含まれるのだから、もしかして池田大作は商店会名を道路名と混同したのかもしれない。

劇画第2版 第1回 2020年4月24日

第2版文庫本の内容に合わせる形で再編集した劇画である。聖教新聞電子版で週2回配信。絵は1988年のオリジナル版の劇画と変わっておらず、フキダシ内のNGワードなどが修正されている。

原作:池田大作, 劇画:石井いさみ, 脚本:渡あきら『劇画「人間革命」』聖教新聞電子版, 2020年4月24日
原作:池田大作, 劇画:石井いさみ, 脚本:渡あきら『劇画「人間革命」』聖教新聞電子版, 2020年4月24日

後継者の正統性を担保する「この門」

以上で、中野刑務所正門に注意しながら、池田大作著の小説『人間革命』の各バージョンを観察し終わった。創価学会正史として扱う聖なる書物ということで、一字一句句読点に至るまで金科玉条として尊重し後から訂正するなんて考えられないことだろう、と(筆者は創価学会員ではないので)今回の調査を始めるまでは思いこんでいたのだが、実際には各バージョンごとに、非常に気軽に修正が加えられていた。

さて、これまで触れなかったが、小説『人間革命』には今までに扱った他に、「門」が登場するわりと重要な一節がある。以下に、3つのバージョン(新聞小説1965、単行本1965、文庫本2012)でその部分を引用する。

恩師おんし牧口まきぐち会長は、この門を死によって、かえられた。彼はいま、生きてこの門を、出たのである。
生死しょうじの二法は一心の妙用みょうようなりと。ともに、広宣流布こうせんるふ王仏冥合おうぶつみょうごうの一心には、何等なんらかわりはない。
師弟不二していふに生死不二しょうじふになればこそ、宗教革命しゅうきょうかくめいの血は、脈々みゃくみゃくと、うけつがれていた。牧口会長の生命は、戸田の己心中こしんちゅうに、生涯しょうがい生きつづけるであろう。
—— 新聞小説 (3), 聖教新聞 1965年1月9日
 彼の恩師おんし牧口まきぐち会長は、この門を死によって、かえられた。彼はいま、生きてこの門を、出たのである。
生死しょうじの二法は一心の妙用みょうようなり —— と。牧口会長も戸田城聖も、ともに、広宣流布こうせんるふ王仏冥合おうぶつみょうごうの一心には、何等なんらかわりはなかった。
師弟不二していふに生死不二しょうじふになればこそ、宗教革命しゅうきょうかくめいの血は、脈々みゃくみゃくと受けつがれていた。
—— 単行本 p.9, 聖教新聞社 1965
戸田城聖の恩師である、創価教育学会の会長・牧口常三郎つねさぶろうは、死によってこの門を出た。彼は、今、この門を生きて出たのである。
生死しょうじの二法は一心の妙用みょうようなり、という。
 そして牧口も戸田も、共に人類の平和と幸福を実現する広宣流布こうせんるふの一念には、なんら変わりはなかった。師弟不二生死しょうじ不二なればこそ、宗教革命の血は脈々と受け継がれていたのである。
—— 第2版文庫本 p.28, 聖教新聞社 2012

ここは、"彼"(戸田城聖)が、初代会長牧口常三郎の後継者として正統であることを担保する一節である。

正統性の担保に使われたのが、引用文中それぞれ2ヶ所ずつ出現する「この門」(太字は筆者)という舞台背景である。牧口と戸田は戦時中、牢獄に囚われていたが、「この門」を出たときには、師匠(牧口)は死んでいて、弟子(戸田)は生きていたということで、正統な世代交代を印象付けていると思われる。

戸田城聖は本当に豊多摩刑務所を出獄したのか

さて、「この門」は実際には何を指しているのだろう。小説『人間革命』は戸田城聖について書かれているのだから、「この門」は豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)であると解釈するのが自然である。実際、「この門」が出てくる一節は、本稿で調査した、戸田城聖豊多摩刑務所の表門を出獄するシーンの直後にあたる。

ところが、牧口常三郎は、1944年11月18日、巣鴨にあった東京拘置所内の病監で栄養失調と老衰のため死去しており、豊多摩刑務所の表門を遺体となって出たという事実はない。

いったいどういうことなのだろうか。「この門」は具体的な門を指しているのではなく、漠然といろいろな刑事施設(刑務所、少年刑務所及び拘置所)の門を指しているのだろうか。だとすると、門は刑事施設の門ならどこでもよかったということにならないだろうか。つまり、戸田城聖は、どこかの刑事施設の門を生きて出さえすれば、作者の池田大作が「この門」を含んだこの重要な一節を記すことができ、正統性を担保できるのではないだろうか。

創価学会のホームページや資料によると、戸田城聖は、1945年6月29日に東京拘置所から豊多摩刑務所に移送され、その4日後の1945年7月3日に豊多摩刑務所表門を生きて出たことになっている。東京拘置所への収監は、創価学会以外の資料にも記録が残っているから、事実と思われる。しかし、そこから移送されたことは、小説『人間革命』連載開始 (1965年1月1日) 以降に作成された資料§以外に記述を見つけることができない。

念のため、他の未決囚の移送状況に関しての記録も調べてみよう。1945年5月24, 25日の空襲で裁判所と司法省が焼けたが、東京拘置所は無傷だった。裁判所と司法省に東京拘置所の建物を使わせるため、東京拘置所に収容されていた未決囚を豊多摩刑務所に移送したことについて、次の1、2、3のような記録がある。

  1. 風早八十二編 (1986)『獄中の昭和史』青木書店, p.118。6月に豊多摩刑務所に移送された未決囚(日本共産党員の内山弘正)は、7月に入ってからも予審の取調べを受けるため、豊多摩刑務所から東京拘置所の建物まで護送車でわざわざ往来している。そして、彼には判決が出ないまま8月の敗戦を迎え、GHQにより治安維持法が廃止されたあと、ようやく、10月9日から10日にかけて、豊多摩刑務所から解放されている。
  2. 三木清全集 第19巻 月報, p.3, 1968年5月。3月末に拘引された未決囚 (哲学者の三木清) が6月20日#に東京拘置所から豊多摩刑務所に移送されたことは、身元引受人 (農業経済学者の東畑精一。妹が三木の妻) が働きかけるまで知らされなかった。彼には判決が出ないまま、9月26日朝早く、豊多摩刑務所からの一片の電文草稿をもった老人が身元引受人宅を直接訪れ獄死の報をもたらした。
  3. 神山茂夫 (1963)『愛する者へ : 神山茂夫獄中記録』飯塚書店。東京拘置所に収監されていた神山茂夫は、5月7日、宮本顕治の刑が確定したことに伴い、二舎1階32房から二舎2階32房に移される。このとき戸田城聖が神山と入れ替わりで二舎1階32房に入る (p.115。神山茂夫 (1965)『風雪の中で 続』刀江書院, p.106 にも同様の記述がある)。 6月25日、神山は、東京拘置所が中野へ移転することと発信の停止とを通知される (発信を再開できるようになるのは7月6日より後)。6月30日、神山は豊多摩刑務所に移送され、五舎2階89, 90房に入る (pp.153-154)。神山は、巣鴨でも中野でも看守たちを手懐け、火災報知器を使って独房を出入りし、他の収監者とある程度自由に交流していた。東京拘置所の機能を収容した豊多摩刑務所五舎2階の詳細な見取り図を残しており (p.118)、そこに戸田城聖の名前はない。上掲の『風雪の中で 続』にも豊多摩刑務所に移ってから戸田に会ったという記述はない。神山は、予審のため頻繁に東京拘置所の建物まで往来し、終戦後の8月31日、懲役10年を言渡されている。豊多摩刑務所を出たのは10月9日 (pp.178-181)。神山は、出獄後に数回、戸田と対談しているが豊多摩刑務所で戸田を見たという発言はない。当時の郵便事情について「7月30日付のハガキ2枚、8月13日中野の消印で8月19日入ってきた。」とも述べている (p.159)。

つまり、敗色濃厚になってから敗戦後のどさくさに至るまで、豊多摩刑務所に移送された未決囚は収監されたまま、ほぼ放置であった。

したがって、戸田城聖に限って、司法が機能停止に陥っていたこの時期に、移送後たった4日で「この門」を出ることができたということは、ほとんど信じられないことである。しかも、「この門」の前には、出獄を前もって知って出迎えに来た妻の幾枝(と、実姉とその息子)が居たのである。これも、連絡手段が限られた当時の状況では、ほとんどあり得ないことだろう。

戸田城聖の2代目としての正統性をかっこよく担保するために、見栄えのする豊多摩刑務所表門(中野刑務所正門)を舞台装置に用いて、小説の虚構として(牧口と戸田で共通であるかのように読める)「この門」と記しただけではないのか。また、当時、転向を拒否した既決囚を刑期満了後も収監しつづけるための施設(東京予防拘禁所)に豊多摩刑務所内の十字舎房が充てられており、「拷問でも絶対に転向しなかった戸田城聖」のイメージを印象付けるためにも、豊多摩刑務所を舞台に使うのは好都合だったのではないのだろうか。あるいはもしかすると、大逆罪(法定刑は死刑のみ)の李奉昌が刑場のない豊多摩刑務所から出て刑場のある市谷刑務所で執行されたとか、イエス・キリストゴルゴタの丘で刑死し埋葬された3日後に復活した(『人間革命』黎明 7 には、「(戸田は)三年の刑を三日ですませた」とある)とかに擬えてみただけかもしれない。

小説『人間革命』に登場する中野刑務所正門を調査したおかげで、ひょっとして、戸田城聖豊多摩刑務所へ移送されたりしていなかったのではないか、という疑念が生じてしまったところで、筆をおく。

付記(2021/2/11): 本稿の続編を書きました⬇️。 nakanocitizens.hatenablog.jp

注¶ たとえば、戸田城聖存命中の出版では 安永弁哲 編著 (1956)『板本尊偽作論』多磨書房, p.4, l.7、没後の出版では 庭野日敬 (1962)「創価学会に対する吾らの態度」『宗教公論』32(7), p.22, 上段 l.10。

注§ たとえば、村上重良 (1966)「戸田城聖折伏大行進」『近代日本を創った百人 下』毎日新聞社, p.193, 下段 l.-1, p.194, 上段 l.1 には「やせ衰えた戸田は、豊多摩拘置所を保釈出所した。」とある。同書は、法悟空 (池田大作) 著の小説『人間革命』を参考文献に挙げないものの、妙悟空 (戸田城聖) 著の小説『人間革命』を挙げ、いわゆる「獄中の悟達」等の内容を無批判に事実とみなし丸写ししている。

注# 三木清全集 第19巻 (遺稿・日記・書簡・補遺・年譜 他), 1968, p.886

注† イエス・キリストの3日後の復活は Iコリント15:3-4。
さらにいうと、『人間革命』黎明 4 の、省線電車内で4、5人の庶民が焼夷弾の殻からシャベルや包丁を作る議論を戦わせていたところ戸田城聖が立ち上がり歩み寄って彼らの実用新案をベタ褒めし励ます、という唐突で不自然なエピソードも、「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」(イザヤ2:4) のパクりである。
また、『人間革命』のプロローグ「戦争ほど、残酷なものはない。…[中略]…だが、その戦争は、まだつづいていた。」からすぐ主人公の登場(戸田城聖の出獄)につなげる小説作法は、『ヨハネによる福音書』のプロローグ「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…[中略]…光はやみの中に輝いている。そしてやみはこれに勝たなかった。」(1:1-5)からすぐ洗礼者ヨハネの登場が続く構成と同じである。

(く)

追記1 丹羽哲郎主演の映画版 1973年

小説『人間革命』は、1973年に丹波哲郎主演で映画化もされている。その際、豊多摩刑務所表門の場面のロケ地は千葉刑務所だったそうだ。1973年には、まだ、中野刑務所(豊多摩刑務所)が廃庁になっていないというのに。

原作に忠実であるためには、美しい時計塔の画やロータリーのある広場を歩いて門へ向かってくる主人公の画を撮らずに、門の小さな鉄の扉から撮り始めなければならなかったはずだ。つまり、戸田城聖出獄の場面のロケ地として中野刑務所が不適当だったから千葉刑務所にしたのではないか。

そもそも、豊多摩刑務所は、日本が近代国家になったことを世界にアピールするため、罪人に罰を与えるだけでなく更生させる場所が刑務所だという考え方で設計がされていた。表門を入ったところに奥行きのある広場があるのも、更生した受刑者が新たに生まれ変わって外界にでていく産道的なイメージを設計者が具現化したのではないだろうか。こう考えると、『人間革命』での、門の小さな鉄の扉1枚があたかも生と死とをその一箇所で分けているかのような表現は、薄っぺらいとさえ思える。

というわけで、中野刑務所にとって『人間革命』の戸田城聖出獄の場面は役不足であった。『人間革命』は、刑務所の門でありさえすれば、どこの刑務所の門でもよかったのだ。

旧中野刑務所正門(南側(刑務所外)から内部を望む向きで)2019年9月22日撮影

追記2 半円形アーチ窓と鉄門が作られた時期についての考察

現在の旧中野刑務所正門の建物の東側面には、小説『人間革命』の挿絵に描かれたような、特徴的な半円形アーチ窓が残っている。

現在の旧中野刑務所正門の建物東側面に残る半円形アーチ窓。2021/11/5 撮影

半円形アーチ窓と、創価学会中野南文化会館で保管されている "小さな鉄のとびら" が、いったいいつの時代のものであるかについては、下の別記事を参照されたい。結論としては、半円形アーチ窓は終戦後のもの、そして "小さな鉄のとびら" は関東大震災からの復旧工事後のものということになる。この件の考察は下の記事で詳述した。

nakanocitizens.hatenablog.jp