撤去工事が始まった桃園橋に関する備忘(2021年4月)

2021年4月、中野通りの拡幅のため、桃園川暗渠に架かる桃園橋(東京都中野区中央4〜5丁目、1936年建造)を撤去する工事が始まった。桃園橋に関する資料を備忘のためまとめた。2021/4/27記

撤去工事直前の様子

桃園橋

桃園橋全景(左が切れているが……)。橋の南東のロイヤルホスト2階から2021/3/30撮影。

自動車が少なかった1936年(昭和11年)に建造されたにしては、幅の広い立派な橋だ。橋の間を通る道路が拡幅予定の都道420号線(補助26号線)、通称中野通り。右奥が中野五差路。

東京都道420号鮫洲大山線 - Wikipedia

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桃園橋の西側部分。上の写真だと左側。2021/3/30撮影。北西親柱の「桃園橋」プレートと南西の「昭和十一年二月完成」プレート。昭和11年は1936年、つまりこの橋は建造後85年だ。

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桃園橋の東側部分。2021/3/30撮影。南東の「桃園橋」プレートと北東の「もゝそのはし」プレート。

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桃園川緑道

桃園川暗渠の上は、元の川筋が桃園川緑道という公園になっている。

桃園橋の両側のコンクリート製欄干は真ん中が切り取られていて、そこから緑道に降りていくことができた。下の写真の手前の欄干切れ目は西側の緑道に、中野通りをはさんで奥は東側の緑道に通じている。2021/3/29撮影。

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桃園橋の西側の桃園川緑道。2021/3/29撮影。

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桃園橋の東側の桃園川緑道。2021/3/29撮影。

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中野区ホームページより。2021/4/27キャプチャ

桃園川 - Wikipedia

下水道局工事

暗渠化された桃園川は桃園川幹線と呼ばれる。桃園橋撤去は管轄の東京都下水道局の工事として行われている。

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現地の工事お知らせ。2021/3/29撮影

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下水道局ホームページの工事お知らせ。2021/4/26キャプチャ

下は中野通りと大久保通り拡幅計画に関する東京都第三建設事務所のお知らせ。中野五差路付近で2021/5/3撮影。

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桃園橋に関する資料

江戸〜明治半ば-石神井

中野区史跡研究会『中野区史跡散歩』学生社, 1978年版. は 「御立場のほとりの小流に石神井橋という橋あり 長さ二間 幅二間 先年(将軍)御成の時しばしば渡御ありし故 公より修理を命ぜらるる故にわずかなる架橋なれどもここに蔵す」と『新編武蔵風土記稿』を引用し桃園橋の由来を記している。

将軍が鷹狩りのため青梅街道から現在の中野3丁目(JR中野駅の南西)一帯にあった桃園に向かうのに、桃園川を渡る必要があったため、長さ幅ともに3.6メートルほどの小橋が架けられていたという説明だ。橋板が取り外し式だったのか、将軍が渡るときは外して将軍専用の橋板に換えたとか。(近くにある橋場という地名は将軍用の橋板を保管していた場所だという話)

『中野区史跡散歩』によると、長さ二間、幅二間ほどの石神井橋という橋は、明治の中ごろまであったと古老が伝えていたという。

「東京時層地図」(一般財団法人日本地図センター) アプリの1876-1886年(明治9-19年)の地図は、のちの桃園橋あたりの位置に橋が記されており、この頃はまだ石神井橋という名だったと思われる(赤い印は加筆)。川も当時は石神井川と呼ばれていたようだ。

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東京時層地図より
1932年(昭和7年)ごろ-木の桃園橋(注1: この文献は誤り)

東京都中野区役所『中野区史 下巻2』東京都中野区役所, 1954年. によると、1932年(昭和7年)ごろの桃園橋は、長さ5.5メートル、幅4.65メートル、面積25.58平方メートルの木橋だった。

注1) この文献の、昭和7年ごろの桃園橋が長さ5.5メートル、幅4.65メートル、面積25.58平方メートルの木橋、という記述は、その後誤りと判明した。詳細はこの記事末尾の「つづきの記事」からのリンク参照。

この時期の東京時層地図の地図は1906-1909年(明治39-42年)と1916-1921年(大正5-10年)。「桃園橋」と記載がある。地図の北側に描かれている鉄道が開通し中野駅が開設されたのはともに1889年だ。

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東京時層地図より
1937年(昭和12年)-鋼鉄桁の桃園橋

桃園橋の親柱プレートには橋が1936年2月に完成したことが記されている。『中野区史 下巻2』は、1937年(昭和12年)12月の中野区役所土木課調査として、桃園橋を面積100.80平方メートルの「鋼鉄桁橋」と記載している。橋の面積が広がり、鋼鉄桁橋にグレードアップした。

東京時層地図には1928-1936年(昭和3-11年)と1955-1960年(昭和30-35年)の地図がある。前者で橋の位置に描かれたのは垸工橋(注2)の記号であり、既に鋼鉄桁橋に架け替わったあとの図のように見える。また、桃園橋の北、現在の中野郵便局の位置に1936年(昭和11年)1月に移転してきた中野区役所が描かれている。

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東京時層地図より

注2: 垸工橋はコンクリートやレンガ、石で欄干が作られた橋をいう。

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陸地測量部発行地形図昭和5年図式の地図記号(左から2番目に垸工橋)

桃園橋の親柱と欄干はコンクリートだが、緑道側から下を覗くと金属の橋桁の一部が見える。2021/3/30撮影。

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橋桁に記された塗装の記録。2021/3/30撮影。塗装年月1976年8月、塗装面積101平方メートルと読める。中野区ホームページの記載によると、桃園川は1967年ごろまでに蓋かけされ遊具や植栽などが置かれ始めた。この時の塗装は暗渠化のあとで行われたことになる。

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昔の桃園川の写真

中野区『中野区史 昭和編1』中野区, 1971年. には、1935年(昭和10年)の桃園川(現在の中央4丁目=桃園橋の東側のエリア=付近)の写真が掲載されている。この写真は桃園橋架け替えの前年、まだ一帯が田園地帯だったことを示す。しかしそのエリアは1916-1921年(大正5-10年)の時層地図では水田だが、1928-1936年(昭和3-11年)の地図では建物が多く建っていてこの写真と微妙に矛盾がある。

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下は1961年1月1日付中野区報に掲載された、暗渠化前の桃園川の写真。

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1971年11月15日付区報に載った、桃園川の暗渠化後「フタカケ」の上に遊具を設置している写真。

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橋が立派な理由の考察

1936年に桃園橋を立派な鋼鉄桁橋に架け替えた理由は、どこかに書いてあるのかもしれないが見つけていない。ただ架け替えより数年前に、今より西にあった中野駅を現在の位置に移転するとともに駅周辺を掘り下げる大規模な工事が行われており、それと関係があるのではないかと思っている。

中野駅の利用者増

前掲『中野区史 昭和編1』によると、中野駅は、現在のJR中央線である甲武鉄道の開通後間もない1889年(明治22年)4月11日に開設。初めのうち主な駅利用者は堀之内妙法寺新井薬師梅照院、宝仙寺などへの参拝客だったが、1897年(明治30年)に駅北側に陸軍鉄道連隊や電信第一連隊が配備され駅の利用が急増した。1923年(大正12年)の関東大震災などにより中野区域の住民が増え、利用客もさらに増加したため駅が手狭になった。

中野区民生活史編集委員会『中野区民生活史 資料・統計編』中野区, 1985年. に収録されている、中野駅『駅史』(抄)によると、震災前の1922年末の中野駅の1日平均の乗降人数は8807人だったが、震災後の1924年末には倍近い1万5505人に増加した。(ちなみにJR東日本によると、2019年度の中野駅の1日平均の乗車人員は、定期利用も含め15万907人)

駅の東側への移転

中野区立歴史民俗資料館『鉄道にみる中野の歴史』1998年. によると、手狭になった中野駅は「敷地の広く取れる東側」に約100メートル移設された。新しい駅施設は1929年(昭和4年)11月1日完成。現在に至るまで中野駅はこの時の位置にある。

移転前の中野駅は南口しかなかったが、東に移設された駅には南口と北口が作られた。

開かずの踏切対策

移転前、駅の南北間の行き来は踏切を渡る必要があった。『駅史』(抄)によると、北側の「新井方面より中野町に通ずる道路は、電信第一聨隊側を矩形に迂回し」てから踏切を渡るようになっており「これを取扱う第一種踏切は『開かずの踏切』等と批難され申告、投書は絶えなかった」という。当時の列車、電車の運転回数は106回、踏切を渡るのは1日平均歩行者3195人、牛馬車602、車両4515と記載されている。

『駅史』(抄)は、このため高さ6メートル、幅7メートル、橋上を10本の線路が通る「架道橋」が六間舗装道路(現在の中野通り)に1930年(昭和5年)5月19日に完成したとしている。

駅周辺の掘り下げ

架道橋というと高架のような気がするがそうではなく、逆に、現在の中野通りに当たる道路の方を掘って線路が上を跨ぐ切り通しにした。現在、中野通りが中野駅西側の線路のガード下を通っている部分だ。

前掲『鉄道にみる中野の歴史』は次のように記している。

 当時の中野駅は現在より約100m西側にあり、北側はまるまる軍事施設で駅前空間はなく、南側はすでに桃園通り商店街が発展しており、利用者の激増に対応しきれなくなっていた。そのため、敷地の広くとれる東側に駅を移し、南北に駅前広場を設け、さらに中野通りを南に延長して鉄道の下をくぐらせる計画が立てられ、南口広場は東西約130m、南北約150m、深さ約4mにわたって掘り下げるという、現代の団地造成にも劣らない大土木工事を行い現在の景観がかたちづくられた。

『鉄道にみる中野の歴史』によれば、北口広場の掘削整備は南口より後に行われた。

下の写真は、1929年(昭和4年)の、南側から見た、東に移された中野駅(画面右奥)、中央線ガード下を通る中野通り(中央奥)、南に延伸された中野通り(中央)だ。(記念誌編集委員会『サンモールの歩み』中野サンモール商店会, 1989年. より)

中野駅『駅史』(抄)によるとこのガードが完成したのは1930年(昭和5年)5月19日で、その前年の写真にガードが写っているのが変ではあるが……。

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下の画像は2021/5/3撮影のだいたい同じ場所。

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中野通り延伸

地図に北の新井方面と南の桃園橋を結ぶ経路を青い線で書き込んでみる。上の状態が昭和初めごろの工事の結果、下の状態になった。駅が東に移動し、駅北側に元々あった現在の中野通りに当たる道が、線路の下を通ってまっすぐ南に延伸された。

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東京時層地図より

『鉄道にみる中野の歴史』に掲載された下図は、中野通り延伸の際、切り通しに掘り下げるとともに、それとだいたい同じ高さに南の中野五差路までごっそり掘り下げて、高低差の少ないフラットな道路を作ったことを示している。中央線ガードから中野五差路までは300メートル近くある。しかも道幅は六間(10.9メートル)と、当時としてはかなり広い。

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下は2014年8月22日中野区議会中野駅周辺地区等整備特別委員会資料「中野駅南口地区まちづくりについて」に掲載された、中野駅南口周辺エリアの高低差を示す図。一帯の高低差が大きいのに、中野通りは中野五差路までほぼ平らであることが分かる。

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中野五差路

中野駅の南、桃園橋北側の中野五差路はこの時の中野通り延伸工事で作られた。

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Googleサテライトビューに加筆

中野五差路のすぐ南の桃園橋が、広い鋼鉄桁橋に架け替えられたのは、この大掛かりな中野駅移設/中野通り延伸工事の数年後である。中野駅の北側と、桃園橋の先にある青梅街道との間の道路の輸送力向上を目的とする、関連した一連の工事だったとみるのが自然な気がする。

中野駅の北には軍事施設、刑務所、結核療養所があった。しかし大掛かりな道路工事と立派な橋の建造が、それらの施設と関係していたかどうかは憶測の域を出ない。

ふたつの商店会

サンモールの発案?

もっとも、中野駅北側のサンモール商店会によると、中野駅の東側への移転も、中野通りを線路が上を跨ぐ切り通しにすることも、サンモールの前身の商店会による発案だという。

前掲『サンモールの歩み』によると、最初、中野通りを陸橋にし線路を跨がせる計画が「降ってわい」た。商店会は「大通りに陸橋ができたら、車や馬車がほこりを舞い上げて」「店がほこりをかぶって商売あがったりにな」ると反対し、当時の鉄道省に直談判して「地下道への設計変更をかちとった」としている。

商店会はさらに「中野駅を桃園通りのほうから東へ移し」「北口駅前一帯を自分たちの手で掘り下げて、大通りと水平に」する「トテツもない大構想」を立てたという。駅はその通り東に移された。駅前北口広場は実際に商店会が中心となって掘ったようだ。『サンモールの歩み』で座談会に登場する「古老」宇田川嘉彦氏によると、中野通りは国が掘り下げた。

どうも中野通りを駅南に延伸する計画が国にあって、駅北の商店会がその話に乗ったという事情のように思われる。

中野駅が移動し北口ができたことで、サンモールの前身の商店会は駅前商店街になった。

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Googleストリートビューの中野サンモール商店街

一方、それまで駅前商店街だった南側の桃園通り商店会は駅前ではなくなった。

同じ座談会で、別の「古老」吉田豊松氏は、桃園通り商店会は駅の移転に反対したかと問われ「したかもしれませんが、よくわかりません。反対したとしても、今とちがいあの時代では、お上のやることは絶対という感じですからね。反対しきれなかったんじゃないでしょうか」と答えている。

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東京時層地図に加筆
昔の駅の場所に

JRは現在中野駅に西口を作る工事中なのだが、その場所はむかし移転前の中野駅があったあたりだ。

下の写真は中野駅の西口設置が予定されているあたり。撮影者の背後がむかし駅前通りだった桃園通り。2020/9/30撮影

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Googleストリートビューの同じ場所。

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Googleストリートビューの桃園通り。

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桃園橋のところで撮った下の写真は左奥の道が桃園通りだ。

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中野駅西口工事の写真などをまとめている。

中野の他の再開発の写真もまとめている。

追記: 工事開始後の様子(4/30撮影)

工事が始まって周囲にフェンスが設置され、桃園橋から桃園川緑道に下りられなくなった。西側の緑道のスロープや花壇などが撤去された。桃園橋の親柱と欄干、橋の本体部分には手をつけていない。この項の写真は2021年4月30日撮影。連休で4月29日から5月5日まで休工。

桃園橋

西側。

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(下の1枚は4月30日にこの角度だけ撮り忘れてたので5月2日撮影)

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東側。

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桃園川緑道

西側。緑道に下りるスロープと階段と花壇が撤去された。

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東側。こちらのスロープと階段と花壇はまだ撤去されていない。

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現地の掲示

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追記:『中野町誌』の桃園橋写真(5/13記)

この項は(く)による考察を記す。

1933年『中野町誌』の桃園橋の写真

中野町教育会『中野町誌 全』中野町, 1933年. (昭和8年)に「現今の桃園橋」と題する写真が掲載されている。

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右の親柱を拡大すると漢字で桃園橋と書いてある。

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コンクリートの橋?

1933年発行の中野町誌の写真は1936年(昭和11年)の鋼鉄桁橋への架け替え前なのだが、親柱と欄干は木橋というよりコンクリートに見える。

「1932年(昭和7年)頃」に記録された木橋と、1936年に架け替えられた鋼鉄桁橋の間に、もしかしたら短期間、混凝土橋の時期があったのかもしれない。

1928-1936年(昭和3-11年)の東京時層地図で、桃園橋の位置に木橋ではなく垸工橋の記号が描かれていたのは、コンクリート橋と現在の鋼鉄桁橋のいずれだったにしろ正しい情報のようだ。

商店と桃園通りに向かう割烹着

橋の袂(左)の店は「菓子司」、この時代に開業した中野の老舗が数店あるが、該当するものは現存していない。正面(仁丹の左)が桃園通り。中野通りは右で見切れている。大久保通り(宮園通り)は視線に垂直なので写らない。

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正面の仁丹の広告の下のカタカナはたぶん「ゼート末ソ」(末はマ。右から読むので「ソマトーゼ」という滋養品)。

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路上に写ってる人たちは割烹着で自転車に乗ってる人ばかりのように見え、みんな桃園通りへ向かっている。影の向きから昼過ぎの撮影と思われる。

現在の写真と比較

中野町誌の写真は下記のような角度で撮られたと思われる。

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中野町誌の写真を下に再掲し、現在(2021年5月9日撮影)のほぼ同じアングルの写真と並べてみる。現在の写真に記入した赤い線は、中野町誌の当時の桃園橋の親柱の位置を示す。

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中野町誌の写真は旧道拡幅前なので橋の幅は狭い。手前が広いのは橋の手前は既にセットバックしているからだ。橋の向こうに関しては桃園通りは拡幅予定がないのでそのまま。右奥の中野通りに接続する部分はやはりセットバックしている。

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現在の左側親柱は中野町誌の写真の位置と同じかと思ったのだが、現桃園通りの延長線上からいって,やはり拡幅されている。

この写真から発した疑問は、その後、末尾「つづきの記事」リンク先の記事にて解明された。

追記: 中野通り南側延伸の記録(5/13記)

1936年の都市計画変更

中野通りの中野駅南側延伸に関する記録を探してみた。

内閣『東京都市計画地域中変更ノ件』1936年. (国立公文書館デジタルアーカイブ)に次のような記載があった。

中野区中野駅前、宮園通4丁目、橋場町、本町通5丁目の各一部(中野駅附近)

本区域は大正14年1月の指定に係り中野駅前は住居地域とし又府県道第68号中野蕨線は旧路線に依り其の両側を路線的商業地域に指定せられ居るも中野駅の改築並前記府県道の附替改築に伴ひ駅附近は土地の利用状況に著しき変化を来し漸次商業的色彩を以て発展するの傾向に在るを以て集団及一部路線的の商業地域に改め又同府県道の青梅街道寄は追分より分岐する旧路線に依り商業地域に指定せられ居るも同路線は昭和8年度に於て其の西方橋場より分岐することに附替改築せられたるを以て新線区間の両側を系統上路線的商業地域に変更し尚旧路線沿は現状既に商業地として発展しつつあるを以て既定の商業地域を其の儘に据置かむとするものなり

幹線道路「府県道第68号中野蕨線」付け替え

中野駅の改築(東側への移転)と「府県道第68号中野蕨線」の付け替えにより土地の利用状況が変化したので、新路線沿いの駅に近い一部地域を商業地域に変更した、という1936年(昭和11年)11月の都市計画上の決定が記されている。

どうやら以前は、駅北の「電信第一聨隊側を矩形に迂回し」踏切を渡り桃園通りから桃園橋経由で青梅街道に至る道が府県道第68号中野蕨線だったと思われる。中野通りの延伸とは、府県道第68号中野蕨線という幹線道路の、桃園通りから現在の中野通りへの付け替えでもあったようだ。昭和初めごろの中野通り延伸により、桃園通りは中野駅前商店街としての地位だけでなく、幹線道路としての位置づけも失ったということらしい。

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東京時層地図より(再掲)

また府県道第68号中野蕨線の青梅街道寄りの部分も、1933年度(昭和8年度)に付け替えられたと書かれている。

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内閣『東京都市計画地域中変更ノ件』1936年. (国立公文書館デジタルアーカイブ)より

つづきの記事

桃園橋の撤去時期と工事内容。都が一部保存「調整中」

昭和7年ごろ桃園橋を「木橋」とした文献は誤り

紙の冊子を作ったよ

 

(中野非公式通信) & (く)